「蓮實重彦特別講義 『映画あるいは「類似の罠」』完結編」

蓮實重彦特別講義 『映画あるいは「類似の罠」』完結編」(アテネ・フランセ文化センター) 

 昨秋の紀伊國屋サザンシアターでの講演の続編にして完結編の筈が、冒頭から今回で完結しないと告げられる。それに続いて語られたのは下記レジュメに沿ったもので、前回の復習的に『侠骨一代』の藤純子を見た僧侶が高倉健の母親に「似ている」と漏らすシーンから、『捨てうり勘兵得』の同様に「似ている」という台詞が飛び出すシーンの類似を改めて。『生きるべきか死ぬべきか』までで時間が来たので、その後語られる予定だったスピルバーグ黒沢清の二重化についてはまた今度。「未完結」の言葉を残して終了。

映画 あるいは類似の罠 完結編

アテネフランセ

2009/06/29


蓮實重彦



 映画は、何ものかに似ていることでかろうじてみずからを支える脆弱な表象形式である。どれほど「独創的」な作家の作品であろうと、それは必然的に「何か」に似ざるをえない。被写体との類似はいうまでもなく、題材(リメイク、無自覚な類似、等々)、説話論的な構造、主題論的な配置、人物(スターという同じ人物が、別の人物を演じる、あるいは別であるか同じであるかの識別を無効にする=『ヌーヴェルヴァーグ』のアラン・ドロン)、画調(ハイキー、ローキー)、キャメラアングル(ローポジション=小津)、編集、等々においては、類似がとめどもなく増殖する。映画とは本来単調なものであり、映画を見るとは、映画を撮ることがそうであるように、その単調さを受けいれつつ、その類似の増殖に手をかざす運動にほかならない。
 ところが、映画をめぐる理論的な言説は、この単調さに向かい会おうとしない。ジル・ドゥールズの『映画1*運動イメージ』、『映画2*時間イメージ』においても、あらゆる作品が何かに似ているという映画の存在論的な単調さを論じることは回避される。だが、ドゥルーズ=ガタリは、「リゾーム」において、それと意識することなく「映画的なもの」に触れていたのではないか。あるいは、ニーチェの「永劫回帰」を、同じものの再帰が異なるものの生成にほかならぬといったドゥルーズは、そうと意識することなく「映画的なもの」に触れていたのではないか。さらには、『差異と反復』で「シミュラークル」を問題にするとき、そうと意識することなく、「映画的なもの」に触れていたのではないか。にもかかわらず、『映画1、2』のドゥルーズは、映画を語るにあたって遥かに小心、かつ慎重であるように見える。
 ドゥルーズにおいてさえ顕著なこの大胆さの欠如を、われわれはどう処理すべきか。ことによると、「哲学」は、類似に対してはひたすら無力な言説なのかもしれない。それは、この書物の書かれた時代背景(〜1980)、地域的背景(フランス)の限界なのだろうか。前回(2008/11/27)は、マキノ雅弘における「類似」を導入部として、リュミエールやメリエスから今日にいたるまでも映画を生気づけている「二重化の誘惑」について語った。今回は、同じくマキノに触発され、その問題をさらに深めたい。



01 『侠骨一代』(1967 マキノ雅弘) 
02 『捨てうり勘兵得』(1958 マキノ雅弘) 
03 『間違えられた男』The Wrong Man (1957 アルフレッド・ヒッチコック Alfred Hitchcock) 
04 『怪盗ルパン』Les Aventures d'Arsene Lupin (1957 ジャック・ベッケル Jacque Becker)
05 『阿波の踊子』(1941 マキノ雅弘
06 『踊らん哉』Shall We Dances? (1937 マーク・サンドリッチ Mark Sandrich)
07 『影武者』(1980 黒澤明
08 『独裁者』The Great Dictator (1940 チャールズ・チャップリン Charles Chaplin)
09 『生きるべきか死ぬべきかTo Be Or Not To Be (1942 エルンスト・ルビッチ Ernst Lubitsch)
10 『ドッペルゲンガー』(2003 黒沢清

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