『これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行』(☆☆☆★★)

(158)『これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行
☆☆☆★★ 映画美学校第一試写室
演出/沖島勲  出演/沖島勲 石山友美
2009年 日本 カラー 97分

 ある日、沖島勲監督の新作が完成したという案内が届いた。『一万年、後….。』(2007)以来となる新作映画だ。これまでの作品間隔からして新作を観るのは随分先になるという思いがあったので、わずか2年で新作が観られるとは嬉しい驚きだ。
 1回きりの試写でプレスシートもなく、ネット上に情報が載っているわけでもなかったので、この作品の概要は頂いた試写状に掲載されていた文章から判断するしかない。長い文章ではないので全文引用する。
 タイトル、スタッフクレジット部分は省略するとして、こう書いてある。

私(沖島勲)が玉川上水添いに井の頭公園に至る迄の散歩道を色々解説しながら歩いていく、ただ、ただ、それだけの映画です。それでもよろしければぜひ御高覧下さい。

 これだけである。この案内を読んで、何とも不思議な気持ちになった。何だろうかこれは。沖島監督作品でなければ気違い沙汰にも思いかねないし、試写にお誘いいただいても遠慮というか尻ごみしてしまいそうな雰囲気が漂う。何せ“それだけの映画”“それでもよろしければ”というのが引っかかるではないか。しかし、後述する三十代前半の監督が撮ったある作品を先に観ていたせいもあって、何やら思わぬ共通項があるような予感にも捉われて期待を抱きつつ観た。

 映画は冒頭にタイトルが出た後、2009.04.23という日付が出て沖島自身が画面に姿を現す。事前に分かっていたこととは言え、恐怖を覚えた。と言うのも、沖島自身が本人“役”で自作に顔を出すのは初めてのことだ。若松プロでの助監督時代に遡っても、『性の放浪』(1967)のラストに映画監督役で登場した程度だ。自作も含めた若松プロの作品に頻繁に顔を出していた足立正生大和屋竺に負けず劣らずの異形の風貌を持つ沖島は何故露出が少なかったのか。『日本暴行暗黒史 怨獣』(1970)に主演した同じく若松プロの助監督出身である山下治の異形ぶりと同様、その存在感が強烈過ぎて、ちょっとした役で使うには意味を持ちすぎる為、ここぞという絶対的な役でしか起用できなかったのだろうとこれまで想像していたが、初の監督主演作となった本作を観ると、沖島作品だけではく、沖島自身が時空間を歪める特殊能力を持っているゆえ、役者で起用すると映画全体の世界観に影響を与えかねないので迂闊に使うことなどできないのだということが分かった。
 沖島が発生させる時空間の歪みはデビュー作『モダン夫婦生活読本 ニュージャック&ベティ』(1969)から既に見られる。いきなり童謡の「ぞうさん」が劇中で唄い出され、それを耳にした男がそんな唄は存在しないのだと叫んだ時、観客は恐怖を覚える。今観ているこの世界は、どうも現実とは異なる世界らしい。異世界の深淵を覗きこんでしまった恐ろしい感触が付きまとう。そして『一万年、後….。』に至り、いよいよ異世界との境界ははっきりと形を見せ始め、それが沖島自身によって誘発されることが明らかになる。主人公の職業は映画監督であり、壁に映し出される彼が監督した作品と称されるものは『モダン夫婦生活読本 ニュージャック&ベティ』なのだから、阿藤快演じる主人公は沖島自身であることは明らかだ。それだけに、『一万年、後….。』に続く本作で沖島自身が画面に登場するということは、本作を『一万年、後….。』の続編的位置づけの作品として捉えることも可能であろう。しかし、それゆえにあの作品のネクストということは、何が起こっても不思議ではないということだ。映画そのものの概念すら覆されかねない。冒頭に沖島が登場するだけで恐怖を覚えたのは、そのためである。


 沖島と同伴する若い女性(石山友美)が立っているのは久我山駅近くの岩崎橋だ。ここから映画は始まる。祖父と孫とまではいかないにしても、かなり歳の離れた二人の並びに接点はなく、実際、沖島が一方的に喋り、彼女はひたすら頷き「はい」を連発するだけだ。しかしそれで良い。沖島監督と話す機会があるとして、果たして私やあなたは対等に会話する自信があるだろうか。沖島監督作がまとめてDVD化された時、特典映像で沖島と対談の相手を務めたのは高橋洋だ。この実に適格なキャスティングは予想通り刺激的な対談になっていたが、その映像を垣間見るだけでも単に編集スタジオの椅子に腰かけて対面しているだけにも関わらず時空間の歪みは随所に発生し、高橋洋だからこそ対談としての体面を保っていたが、何も知らない人間がそこに置かれたら発狂していたのではないかとすら思えた。別に沖島が気違いめいた言動を繰り返すわけではない。ごく常識的な言語がやり取りされているだけなのだが、何か世界が決定的に違っている気がしてならないのだ。だから、この女性が不用意に沖島の言葉に必要以上に引っかかったり、気の利いたことを言ったりしないのが映画の流れを阻害せず良かった。
 沖島は道沿いの大きな木を指差し、カラスに急襲されて頭を突かれた体験を語り、歩を進めながらカメラに向かって「カメラ逆に向けて」とカメラポジションを指示しつつ語り続ける。そこで語られる言葉に不思議な気分で聴き入っていると、沖島は「だからってどうってことないんだけどね」と言ったりするものだから、こちらは肩透かしを食らい笑ってしまう。その時にこれは散歩でしかないのだと改めて認識した。そう、「散歩道を色々解説しながら歩いていく、ただ、ただ、それだけの映画です。」と沖島は試写状に書いていたではないか。だからこの作品は『ちい散歩』とやっていることは同じだ。だが、あの番組では歩くこと、そこで遭遇するものに意味が付随してくるが、この作品では意味は徹底的に無効にされる。正に「どうってことない」だ。
 そう思うと、沖島の新作だという緊張感が一気に消え、この作品によって観客は沖島と散歩してその何でもない話を心地良く聞き流すことができるという特権を得ることができるのだと嬉しくなった。その何でない話が何とも心地良い。
 次に兵庫橋を通過し、ここでは西行法師、モーリス・ド・ヴラマンクの絵、更には村上春樹の話と次々に飛躍していく。そこを過ぎたところにある公園で休憩することになるが、公園に咲く桜を指差して沖島は、桜の向こうに違う時間や空間があるんじゃないかと幻惑されると語るのだが、これは正に沖島作品そのものだ。例えば『したくて、したくて、たまらない、女。』(1996)で、映画が後10数分で終わろうという時、それまでのウェルメイドなピンク映画として成立していた世界が黒沢清の登場によって突如世界に裂け目が出来、こことよその世界の境界が曖昧化していく。
こちら側とあちら側で違う時間や空間が存在しているような恐怖感に観る者を誘うのが沖島作品だ。この作品でも、ここ辺りから時空間の歪みはより顕著になっていく。川に沿って歩を進めながら沖島は川の向こうに建つ旧家を指差し、その時代を超越した家屋の構えに「これ、時間飛びますよ」とその異物感を語る。川の向こうへの幻惑を口にし、ありきたりの自然に囲まれた散歩道が異世界へと塗り替えてられていく。
 長兵衛橋、東橋、若草橋、幸橋へと進み川に沿った散歩は終わりを告げ、その先にある家族や恋人連れで賑わう井の頭公園に到着する。その平和な何でもない光景はもはやただの何でもない世界ではない。沖島が開いてしまった異世界との裂け目が向こうに見え隠れする世界に思えてしまう。
 ここで、何とも沖島作品らしい人を食ったオチがつき、観ている者は唖然とし、次の瞬間爆笑してしまう。その素晴らしいクダラナサに感動を覚えるのだが、それは劇場で公開された際に確認していただきたい。常人が同じことをすれば観客は暴動必至だが、沖島勲にだけ許された禁断のオチが見事に決まる瞬間を体感していただきたい。

 最初にも書いたが、本作を観る前から三十代前半の監督が撮ったある作品とのリンクを予感していた。それは松江哲明の新作『ライブテープ』だ。これは今年の元旦に吉祥寺で撮影されたもので、全篇1シーン1カットで撮影されたライブ映画だ。ミュージシャンの前野健太が吉祥寺の街を歩きながら歌う姿を捉えることで1本の長編映画にしてしまった作品であり、武蔵野八幡宮から始まり、井の頭公園で終わる。つまり、『これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行』が南から北上して井の頭公園に至ったのとは反対に『ライブテープ』では北から南下して井の頭公園に向かう。全く偶然でしかないが、2009年に沖島勲松江哲明というキャリアも作る映画の傾向も年齢も全く異なる二人の映画監督が偶然、北と南から井の頭公園目指して、1日だけの撮影で、それも共に1日の内の数時間を使っただけで長編映画を撮ってしまった。それで双方面白い。そんなことがあって、いーのかしら。と呟きたくなるほど刺激的な出来事だ。とはいえ、1シーン1カットの『ライブテープ』と、編集でカットが積み重ねられている『これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行』では手法も異なるし、受ける印象も異なる。しかし、井の頭公園を終点にした若々しい魅力に満ちた作品であり、何でもないありふれた風景を変貌させてしまう映画であることは共通している。『ライブテープ』は年末に公開が予定されているが、『これで、いーのかしら。(井の頭) 怒る西行』はまだ公開予定を聞かない。この2本が連続して上映されるような機会を期待したい。そして、沖島勲松江哲明に互いの作品を観て語り合ってもらいたいという夢想を抱いてしまう。