『日本春歌考』(☆☆☆☆)

第31回ぴあフィルムフェスティバル 招待作品部門 大島渚講座
(161)『日本春歌考』
☆☆☆☆ 東京国立近代美術館フィルムセンター
監督/大島渚   脚本/田村孟 田島敏男 佐々木守 大島渚   出演/荒木一郎 岩淵孝次 串田和美 宮本信子 吉田日出子 伊丹一三 小山明子  
1967年 日本 カラー 103分

日本春歌考 [DVD]

日本春歌考 [DVD]

 大島作品のベストは?と問われると困惑するが、最も繰り返し観ているのは『日本春歌考』だ。何回観ても飽きない。わけがわからないが故に退屈することがない。何か作業をしながらビデオやDVDで流しておくだけでも面白い。フト顔を上げて画面を観た時には必ず面白いことが起こっているのだから。
 その『日本春歌考』を黒沢清の講義つきで上映するという刺激的な企画を今年のPFFが仕掛けてきた。既に今年の頭に発売になった『BRUTUS (ブルータス) 2009年 2/1号』の特集「ブルータス大学開講」で黒沢が東京藝大の講義でこの作品を語ってるのを読んで面白いことこの上なかったので、いそいそと出向いた。
 上映後に語るのかと思いきや上映前だったので意外だったが、これはこの作品をどう観るかを啓蒙するという意図があるのだろう。東京藝大では午前中に映画を上映し、午後、黒沢の講義を行うというスタイルらしいが、観方を教えてから作品を上映するのでは、かなり偏った扇動が行われる危惧もあったが、しかし、逆に考えればそれぐらい手荒な事をしないと、大島渚を現代の映画作家として捉え直すのは難しいのではないか。実際、以前フィルムセンターで『絞死刑』が上映された際に駆け付けた時も、観客は高齢者ばかりで若い世代と大島との断絶を感じた。せいぜい観ていても『青春残酷物語』『愛のコリーダ』『戦場のメリークリスマス』ぐらいのもので、『日本春歌考』や『東京戦争戦後秘話』に狂う若い世代がもっと居ても良い筈だ。その意味で、黒沢清の名に惹かれて若い世代が目につく今回の企画は素晴らしく、それもPFFだけに『東京戦争戦後秘話』あたりかと思いきや『日本春歌考』を上映するというのが何とも素晴らしい。
 黒沢清大島渚を語ったことがあったのか、『BRUTUS (ブルータス) 2009年 2/1号』を読む以前では記憶がない。蓮實重彦ラインで見ても、青山真治が『フィルムメーカーズ/大島渚』の対談に登場した際に意外に思ったくらいで、蓮實は『マックス、モン・アムール』になって初めて大島を評価したのではなかったか。それ以前は淀川長治が『愛の亡霊』でようやく大島を認めたように、このあたりの人たちは後期の大島しか評価していないのではないかと思っていた。それが、現在の大島の評価に影響があると考えるのは過大にしても、ここ20数年で生き返った映画作家、再度殺された、あるいは殺された映画作家への影響力を考えても蓮實を筆頭に大島大島と連呼してもらえればまた違った状況があったのではないかと思うこともある。
 だからこそ黒沢の大島ならびに『日本春歌考』への言及は意外だったし、個人的にも大好きなこの作品に「黒沢清が誉めてるから」という興味からでも狂う観客が出てくれば大島をめぐる状況も変わり再評価の機運にもなるだろう。
 黒沢の話は今日が日食であるという雑談から始まったが、これは当然『日本春歌考』で印象的に登場する黒い日の丸へと繋がり、そしてこの作品は「歌合戦映画」であるという定義を提出する。以下、講義メモの一部。

■この作品は二つの対立する価値観をぶつけ合う映画であり、台詞だとギスギスするものを敢えて歌でやることによって娯楽となる。
■『日本春歌考』は「政治歌合戦映画」であり、ここでの歌合戦による対立は、春歌vs軍歌、男vs女、若者vs老人といった形で描かれる。
大島渚という映画監督は、戦前世代の監督とは異なる。作風は流動的であり、スキあらば街中でカメラが回るという現代的な資質を持つ監督である。
■この作品の「音」は全てアフレコである。それによって予算の問題だけではなく撮影の呪縛からも解放されている(撮影時に同時録音を行う場合はブームマイクをどう配置するか、あるいは騒音がすればそれが静まるまで待たなかればならないなど撮影への影響は大きい)。アフレコによって現実の音を再構築している。
伊丹十三の台詞と口は合っていない。アフレコであることを誇らしげに示すようである。
■冒頭のショットがサイレント映画的。

 他にも色々あるが、『日本春歌考』を「音」の視点から捉えたのが面白かった。自作を雄弁に語る映画監督に注意しなければいけないのは、その説明を正解として決めつけてしまい、観る者が画一的に受け止めてしまうことだ。大島渚も多くの書物で自作を語っているが、『日本春歌考』のアフレコにしても大島の書を読んでいれば、公開までの日数がなくシナリオもないままに撮影に入っていたほどだから、撮影の効率化という意味でオールアフレコにしたのだろうと勝手に納得してしまう。小山明子荒木一郎と高速道路を歩くシーンでリップシンクしていないことを後々まで悔やんだというエピソードもあったことを思い出したりもする。確かにそれは映画史的事実なのだろう。しかし、そこに拘泥してしまっては黒沢清のような「音」の視点からの再発見はできない。現実と空想の世界が曖昧化されるこの作品の特性を「現実の音を再構築」することで可能にしていたという視点は面白い。
 それにしても、伊丹十三を中心に置くことで大島渚黒沢清が並んでしまう(黒沢清は本作で教師と教え子を演じた伊丹と宮本信子を後年CMで演出し、『スウィートホーム』では宮本を主演者として撮り、伊丹も特殊メイクで出演)映画史の不可思議さを思いもするし、本作を語る上では避けて通れない固有名詞「伊丹十三」を黒沢清が口にする時にこちらが受ける緊張感や、そこで語られる内容に、そこはかとなく伊丹の性格を匂わせる辺りも興味深かった。
 講義後に『日本春歌考』が上映されたが、フィルムで観るのは初めてだったが状態も良く、新たな発見もあり、これだけの観客と共に『日本春歌考』を観ることができることの幸福を思った。