映画 「笑の大学」

molmot2004-11-30

1)「笑の大学」 (ワーナーマイカル板橋) ☆☆☆★

2004年 日本 カラー ビスタ 東宝 121分 
監督/星護  出演/役所広司 稲垣吾郎

三谷幸喜と映画の関係は案外悪い。東京サンシャインボーイズのヒット劇を中原俊が映画化した「12人の優しい日本人」ぐらいが評価できるもので、三谷自身が監督した「ラヂオの時間」も「みんなのいえ」も凡庸な作品だった。市川準が監督した「竜馬の妻とその夫の愛人」など調子の良かった市川準にあるまじき凡作だった。
 クレージーキャッツは実演(舞台)が最良で、次がテレビ、最も冴えなかったのが映画と言われるように、三谷も舞台、テレビでの仕事に比べると映画は遥かに劣る。
 「笑の大学」を映画化すると聞いて、かなりの演出技量が求められる作品だけに、どうするのだろうと思ったが、結果はフジテレビ製作らしいスペシャルドラマ程度のものでしかなかった。
 三谷自身が、監督に星護を指名したと言われているが、ハリウッド志向の強い三谷にとって、勝手に改稿したり、監督の作家性を強引に当て嵌めることが映画作りだと信じているような現在の日本映画の監督よりは、テレビのディレクターに任せた方が自身の望む方向に近いと考えたとしても不思議ではない。実際、この作品は、無難に仕上がっており、オリジナルを傷付ける仕上がりにはなっていないのだから、三谷としてはこれで良かったのだろう。
 舞台版をビデオで再見してから本作を観たので、比較などもしながら観ていたが、映画向きの作品ではないという思いは拭えなかった。三谷が映画用に書き下ろしたと言われているが、科白はほぼ舞台版(ラジオ版は聞いていないので比較できない)と同じで、あまりにも舞台的な鳥小屋の件はカットしてあった。又、視点を役所広司側に持ってきている。 一般的な映画用の脚色なら、椿一を主にし、彼と劇団周り、浅草の人間たちを盛り込んだりしたくなるが、三谷はあくまで原作のテイストを最大限尊重し、原作を傷付けない程度の描写を付け加えているにすぎない。
 別に映画向けに派手なシークエンスを作る必要はないし、元が良いだけにこの脚本でも申し分ないとは思うが、演出がテレビフレームでのヴィジュアルを立てた作りにしてしまっているので、ここには全く映画的空間が息づいていない。地味なハナシなのに、それなりの制作費をかける機会に恵まれながら、ここまでセットを生かせないのは監督の資質に問題があり、室内劇で、どう画を割って、どう切り返して、どうリアクションを切り取るか、という最重要な箇所を、テレビ的な目くらまし的手法で誤魔化し続けていた。
 気の毒なのは、安っぽいヴィジュアルイメージを優先する監督の下で演技しなければならない役所広司で、舞台版の西村雅彦の記憶に囚われ過ぎている嫌いはあるが、何よりバランスを崩すリアクションや、表情を求められているのが気の毒で、とても彼本来の持ち味が出たとは言い難い。逆に、そんな演出だから助かっているのが稲垣メンバーで、一本調子のオーバーアクトが演技と信じ、監督もそれを求める悪循環で、歪な演技をしていた。大体、当時は矯正されることが多かった左利きを、稲垣がそうだという理由だけで、寄りは別撮りで誤魔化しが効くのにやらなかったり、逆光を当てればリンスしているから艶が出る上、髪が茶色過ぎるので、ポマードを塗るぐらいのことはやっても良いではないか。
 唯一評価できるのは、座長を小松政夫がやっていたことで、いくら劇中劇で一瞬とは言え、軽演劇の動きができるヒトを連れてこないとヒドイことになる。その点は成功していたと思うが、やはり劇団内のエピソードを足した方が映画的多重構造ができて良かったと思う。
 小劇場の二人芝居を映画化する難しさは十分わかるが、シリアスな作りにしてその中での面白さという方向に持っていった方が良かったと思う。あの繰り返されるくだらない警視庁の建物の煽り一つとっても、ハッタリでしかなく、こうもコメディ然と作られても作為性が増すだけだ。
 肝心の役所が遂には袈裟まで着て科白合わせをするシークエンスに笑い声を被せるというあるまじき行為を取り、ラストの廊下での凡庸な切り返しなど、呆れる箇所が散見できた。これが映画だとは思えない。