雑誌 「キネマ旬報 12月下旬号」

109)「キネマ旬報 12月下旬号」 キネマ旬報社

 渡辺武信は信頼している批評家の一人だが、この十年程、稀に妙なことを言うなと思う時がある。今号に寄せている「春の雪」評が正にそうだ。
 自分はこの作品はそこそこの出来と思っている。撮影と照明に与する部分の大きい作品だが、又語りにくい作品でもあり、原作に忠実なので、正面から批評するヒトは少ない。
 渡辺ならやってくれるかと思ったが、『いまなぜ三島由紀夫か?という疑問は残る』という自分の大嫌いな、批判する箇所が無い時に使う常套句を使っている。双葉十三郎も「ラスト・エンペラー」で使っていたが、自分は大嫌いな言葉で、よほど企画が変なものでない限り、極力使うべきではないと思う。これを言い出せば何にでも当て嵌まるからで、何故今「キング・コング」なのかわからない。何故、今ゲイシャのハナシなのかわからない。何故今、大和なのかわからない。何故、今戦国自衛隊なのかわからない。何故、今‥と幾らでもヤカラを入れることが可能だからで、更に渡辺は、本編を観る前に『フジテレビが宣伝を兼ねて放映したメイキングを見てしまった』と言い、そこに映し出されたのが『エキストラの煙草を持つ手の位置にまでこだわり、十数回のテイクを重ねる様子』だったことから、『しかしそれは映画にとって本当に必要なことだろうか?』と言い出す。続けて『監督の役割は撮影監督と共にファインダーを覗いてカメラアングルを決めれば、演技のタイミングなどにNGは出すが、かつては今のように現場のモニターで構図の細部を確認してテイクを重ねることはできなかった』と監督の役割の定義を始める。そして、『その制約内で数々の傑作が作られてきた』と過去を比例に出しているが、更に『映画の魅力にとって基本的なのは映像美ではなくタイミングとテンポである』と結論ずける。そして蛇足的に『それに現場で十数回のテイクを繰り返せば俳優も最初の気迫を失いがちだ。』と俳優達の心配までしてあげる渡辺武信である。 
 「春の雪」の映像美造形への偏りの批判は大いにするべきだと思っているが、モニター弊害論を最初に持ってこられると、首を傾げてしまう。「春の雪」本編からは、現場でモニターを使っていたか、そうでなかったかは分からない。偶々『メイキングを見てしまった』からわかったのであり、そこから監督の役割の定義にまでハナシが及んだのだろうが、それは作品そのものとは無関係だ。本編の各ショットから、「春の雪」の映像美への偏りを批判することは可能な筈で、それなら一昔前のAVIDなんか使っているから駄目なんだ、フィルムで編集していないから駄目なんだという批判や、24Pだから駄目なんだという、作品そのものとは無関係で、又副次的情報から得たもので批判する手法と同じ様なもので、揚げ足取りにしか思えない。編集点や映像に問題があるからそういった提起をするなら良いが、そうではないことが多い。単に具体的に批判しにくい場合に使われることが多い。
 大体、『監督の役割は撮影監督と共にファインダーを覗いて』とあるが、覗かせないキャメラマンも多いし、かつてはモニターなしで作っていたからと言って、モニターなしでやれば傑作ができるわけでもないし、モニターのせいで映画が駄目になっているとも思わない。それとも、三島だからモニターなしでやらなければならないのか。『十数回のテイクを繰り返せば俳優も最初の気迫を失いがち』かも知れないが、テイクを重ねるのが悪いとも、重ねない方が良いとも一概には言えないだろう。それにメイキング番組では『NG画面と採用された画面を並べて見せたので、採用分がベターであることは了解できる』とあるのだから、それで良いのではないか。結果的にスクリーンに映し出されたものが、不味く思うならそこを指摘すれば良いのであって、撮影現場での方法論に中途半端に口を出すのは、みっともないし、不要な恥をかくだけだ。口を出すなら、いかにモニターを使うことが問題なのか、それに比べてモニターを使っていない現場の作品は、こんなにも違うといったことを示してもらいたい。前述したことを繰り返すが、『かつては今のように現場のモニターで構図の細部を確認してテイクを重ねることはできなかった』が「かつては今のようにコンピューター上で編集をシュミレーションすることはできなかった」とか「かつては今のように現場で撮影した内容を確認することはできなかった」などと批判の矛先が向き始めたら、映画のテクノロジーの進化すら否定されかねない。