映画 「THE 有頂天ホテル」「博士の愛した数式」

molmot2006-02-06

29)「THE 有頂天ホテル」(Tジョイ大泉) ☆☆☆

2006年 日本 フジテレビ 東宝 カラー ビスタ 136分
監督/三谷幸喜    脚本/三谷幸喜    出演/役所広司 松たか子 佐藤浩市 香取慎吾 篠原涼子 麻生久美子 YOU

 三谷幸喜は、一に舞台、二にテレビ、そしてぐっと落ちて映画、というヒトだと思う。
 舞台に関しては、近年はチケットが通常の手段では取れないので毎回地団駄を踏む目に遭っているが、「東京サンシャインボーイズの罠」以降から観始めたテレビ放送・ソフト化された作品と、数回生で観たという程度の貧しい知識で敢えて言うと、「君となら」「笑の大学」の頃に比して「バッド・ニュース☆グッド・タイミング」になると、三谷自身が言うように、観終わって直ぐ忘れるようなその場限りの笑いへの固執が、そういった作品の必要性はわかるにしても、それを現在の三谷の位置でその役を担う必要があるのかと言えば疑問に思えた。
 映画に関しては、三谷の監督作はいずれも不発で、公開時に夫々観ているが「ラヂオの時間」は音の世界を映画に構築し損ねた上に、西村雅彦の廊下の走りを過剰なハイスピードで見せたのは失笑ものだった。「みんなのいえ」は映画オリジナルで、意図的に演劇的空間からの離脱を図っていたが、無残な失敗作に過ぎなかった。あれほど舞台では才能迸っていても映画では全く映えない三谷幸喜は、映画には不向きであると結論ずけたい中での第三作は、興行的には近年の日本映画の流れに乗じて大ヒットしているらしく、こういった題材の作品が興行的に成功するのは喜ばしい。
 タイトルから連想するのは「有頂天時代」だが、内容としては「グランド・ホテル」を主にした正にグランドホテル形式の諸作で、日本のメジャー映画でこういった題材を現在において映画化できるのは三谷幸喜であればこそというもので、水野晴郎が「シベリア超特急2」でやろうとしていたが、雰囲気すら出せずにいた。
 本作が三谷の監督作品中では最上の部類と言うべき作品に仕上がったのは、やはり無理して演劇的空間からの離脱を試みたりせずに、自身の得意とする演劇的空間と限定された空間を主とし、そこに映画を引き寄せる、ある種の開き直りが三谷らしさを巧く出したと思う。
 オールスターによる群像劇、小ネタの使い方、伏線の張り方からして、三谷の舞台的要素に満ちていて、2時間16分、全く飽きずに楽しめる。
 従って、舞台的過ぎるとか、観た後に何も残らないというのは、作者は初めからそう意図しているので、批判するには当たらない。しかし、これだけ映画的要素に満ちていながら(ホテルそのものが正にそうだし、階段というある意味主役が常時画面に映り込みながら生かせなかったのは罪だ)、一瞬たりとも映画的瞬間が訪れないのは、映画と言う体裁を取っている以上、問題だと思う。建物を生かす才が無いなら人物などをー、アヒルがホテルを疾走するという映画的高揚や、伊藤四朗の「その場しのぎの男たち」で見せた以来の、あの凄いスキップを捉えきれていないという問題、又あれだけ魅力的な篠原涼子のコールガールを何故もっと妖しく映し出してくれないのか、そして最大の失敗は、終盤のあの素晴らしいYOUが『If My Friends Could See Me Now』を唄うという魅力溢れるシークエンスを映画的な高揚感も無く、中途半端なサイズで見せてしまったことで、YOUがとても良かっただけに残念でならなかった。
 松たか子麻生久美子堀内敬子らも可愛いし、原田美枝子が久々に軽妙な味わいを発揮したのが嬉しい。ハナシの転がりも松のエピソードがやや強引だが、それ以外は三谷らしい小ネタを最後まで引っ張りながら展開させていて好ましいのだが、そこに目が行き過ぎて、魅力的なセット、キャストを映画的に展開させる方には目が行っていないように思え残念だった。

30)「博士の愛した数式」(Tジョイ大泉) ☆☆☆★

2005年 日本 「博士の愛した数式」製作委員会 カラー ビスタ 117分
監督/小泉堯史    脚本/小泉堯史    出演/寺尾聰 深津絵里 齋藤隆成 吉岡秀隆 浅丘ルリ子

 小泉堯史というヒトは毎回気の毒に思うのが、「雨あがる」は仕方ないにしても、「阿弥陀堂だより」や「博士の愛した数式」は黒澤組のスタッフが一部参加しているとは言え、黒澤明とは何の関係もないのに、未だに黒澤との比較で語られることの不幸を思わずにはいられない。
 だから、小泉堯史自身が、ハードボイルドものや、サスペンスものの企画があると「雨あがる」の頃にインタビューで語っていたこともあり、むしろ極力黒澤色、それも後期黒澤色の強くない作品を手掛けた方が固有の能力を印象づける上で賢明なのではないかと思った。だから、「八月の狂詩曲」の亜流を感じさせる「阿弥陀堂だより」など、丁寧に作られた作品ではあったが、作品としては魅力に欠ける凡作だったし、不必要に黒澤との比較を生みやすいこともあり、もっと全く違う作品をやった方が良いのではないかと思った。
 そういう意味で、第三作となる本作で、80分しか記憶の持たない数学博士を描くという突飛さに満ちた「博士の愛した数式」を選んだのは正解だと思った。
 原作は読んでいないので比較はできないが、興行的には成功しているようで良かったと思う。
 小泉堯史の作品を毎回観て安心するのは、丁寧に作られた揺ぎ無い正統な映画作りに徹している点で、全ての映画がコレでは息苦しいが、本来こういった作品があった上で反主流の作品が位置することが健全な状況だと思うが、そういった状況にはなっていない。せいぜい2、3年に一度、山田洋次の時代劇か小泉堯史の作品ぐらいでしかそういった作品を観ることができないのは辛い。
 『完全数』『素数』『階乗』『友愛数』といった数字のやり取りが巧みに作劇の中に取り込まれていて、自分など大の苦手な領域だが、平易に説明臭くならずにコミュニケーションのツールとして生かされていたので面白かった。
 「メメント」みたいになっていないから駄目だという気は更々無いが、『80分』という枠組みは大きな意味を持たず、別に1時間でも10分でも良いような扱いである。吉岡秀隆吉岡秀隆的演技をBSで延々見せられ、それも教師役だからアホに物言うみたいな物腰の吉岡秀隆的丁寧さで聴かされることに生理的嫌悪を感じつつも耐えられるのは、やはり上田正治の撮影や、小泉堯史の腕の確かさで、黒澤と比較するなという前言を軽々しく破りながら敢えて言うと、本作の開巻の黒板を正面から捉えたショットと「まあだだよ」の開巻の教室内の生徒達の動きとチョークの粉の動きの凄さの継承という点で、本作はそこらの作品にはない豊かさに満ちている。
 開巻間もなくの吉岡が教室の窓を見やると海面が窓に映じ、そこにタイトルがWり、加古隆の大仰な音楽が被さる段階で、オーソドックスと言うよりも、古めかしさしか感じない、嫌悪すべき旧態然とした日本映画的在り様(敢えて再び黒澤の名を使うと晩年の黒澤でもこんなセンスの欠片も感じさせないタイトルの出し方はしなかった。「カミュなんて知らない」のフォントにも通じる、客席でこれから楽しもうとする観客の積極的意思を奪う文字犯罪である)が伺え、それは子役の演技の付け方や、黒澤和子が衣装を担当する現代劇は何故いつもこんな格好した奴しか出てこないのかと「八月の狂詩曲」にも通じるイラつきを覚えつつ、まあ、時代設定が恐らく20年近く前になっている様なので我慢したものの、終盤の薪能のシークエンスの明快さには失笑したが、しかし、幽玄的美しさが必要なシーンなのだから、せめて「天河伝説殺人事件」の同様のシークエンスよりは良いものにしないと作品の『格』を考えると格好がつかない筈だが、そうはなっていなかった。又、終盤近くの川沿いに佇む浅丘ルリ子をクレーンで俯瞰で捉える移動ショットが、驚くくらい浮いていて、浅丘ルリ子自身の年齢の重ね方の問題もあるのだろうが、魅力に相当欠けた。
 といった不満点はありつつも、堂々たる作りの丁寧に作られた良心作で、観ていて心地良かった。