映画 「小さき勇者たち ガメラ」

molmot2006-05-13

94)「小さき勇者たち ガメラ」 (Tジョイ大泉) ☆☆★

2006年 日本 角川ヘラルド映画 『小さき勇者たち〜ガメラ〜』製作委員会 カラー シネスコ 96分 
監督/田崎竜太    脚本/龍居由佳里    出演/富岡涼 津田寛治 夏帆 寺島進 奥貫薫 田口トモロヲ
 
 自分の世代にとっては、ガメラは=で平成ガメラと呼称される「ガメラ 大怪獣空中決戦」「ガメラ2 レギオン襲来」「ガメラ3 邪神覚醒」の3本に集約され、それ以前にも小学生の頃にテレビ放送で昭和ガメラにも一通り触れてはいるが、せいぜい「大怪獣ガメラ」「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン」「大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス」に愛着がある程度で、ゴジラに比べると相当愛情は薄い。だから所謂昭和ガメラ支持者が、ゴジラの代わりに金子修介伊藤和典樋口真嗣によって好き勝手やるのを苦々しく思うといったことは自分には全くなく、むしろこの3部作をリアルタイムで接することができたことを幸福な映画体験として思い出に残っている。春休みの閑散とした映画館で「ガメラ 大怪獣空中決戦」を観てあまりの面白さに2回続けて観たことや、高校をサボって昼間の映画館で「ガメラ2 レギオン襲来」に酔いしれていたことや、初日の初回のこれまた子供が全く居ないガラガラの映画館で「ガメラ3 邪神覚醒」を観、その後「アルマゲドン」のあまりのつまらなさに口直しにG3を再見したことなど、今でもその時の興奮を思い返す。90年代後半に突如怪獣映画の傑作が現れたのは一体何だったのかと、その後の新世紀ゴジラ金子修介登板作を除くあまりな不甲斐なさを目にする度に思ったものだ。
 金子・伊藤・樋口のコンビで「ガメラ4」をという思いは実現されることなく、金子ゴジラや樋口の監督進出で分散的に思いを巡らせるしかなかったが、一方で徳間大映から角川へと会社も変わり、再びガメラをという機運が高まっていると2、3年前から噂はあった。金子の再登板や堤幸彦がやるとか噂だけは聞こえていたが、結果は仮面ライダーで知られる田崎竜太が監督となった。特撮に手馴れている監督だけに安定したものにはなるだろうとは思った。又、作品の設定を昭和ガメラ的に戻したのも、「ガメラ 大怪獣空中決戦」の準備段階では小中兄弟が係わっていて、昭和ガメラを踏襲した世界観だったと言うから、ある種の必然として受け止めることができた。だから「ガメラ4」になっていないから駄目だ、などと言う気はない。
 まず、上映が始まってムカっとするのはシネスコだからで、平成ガメラ3部作がビスタだったことを考えると、あの特撮をシネスコで観たかったと思わずにはいられなかった。
 開巻は、1973年という設定ながら「ガメラ3」の続き、即ちギャオスの大群とガメラの戦いを描いていると解釈しても良い位で、これは製作者側のサービス的シークエンスで、平成ガメラ的描写を頭で見せた上で、今回は違いますよという説明になっている。ただし、平成ガメラ的描写というにはお粗末なもので、殊にギャオスの大群がガメラを啄ばむという描写は、樋口真嗣なら当然劇場版エヴァンゲリオン的なロングで捉えていただろう。
 本編に入って間もなくの主舞台となる食堂のシークエンスで驚くのが津田寛治寺島進チャンバラトリオ南方英二が居ることで(別のシーンでは渡辺哲も登場)、まんま「ソナチネ」ではないかと。13年前には科白も殆どなかったチンピラ役の津田寛治が主演となり、寺島進が支えるという状況に、昔も今も変わらない南方英二が居るという歪な状況とガメラがどう結びつくのか。
 本作はカメの卵を見つけて密かに育てた少年の目から描かれるジュブナイルだが、危惧した通り、脚本の龍居由佳里が見事な勘違いによって、ジュブナイルでも怪獣映画でもない、凡作に仕上がっている。
 製作者側からすれば、龍居由佳里を脚本に入れることによって『怪獣映画』ではなく普遍性のあるファミリー映画にしたかったのだろうし、平成ガメラとは全く異なる作品を作りたかったのだろうが、ガメラジュブナイルをやるというのは既に「ガメラ2 レギオン襲来」の子供達の描写や「ガメラ3 邪神覚醒」で試みられているので、観客としては別物という視点を持つことができない。しかも、伊藤和典はいかに怪獣映画に出てくる子供が生意気にならず、恥ずかしくない描写にできるかを腐心して、完成した作品に観られる必然性を持った描写を作り出し、子供の登場が邪魔にならない稀有な怪獣映画を作り上げたというのに、本作は何だ。
 開巻で母親への思いを、とてつもなくストレートな科白で言ったり、墓地から食堂と繋がっていくシークエンスで常時カメラが移動しているのも必然性がなく、無闇にカメラを動かす映画にロクなものはないという鉄則に沿った作品にならなければ良いがというこちらの心配をよそに、正にその通りに物事は運び、隣家に住む年上の女の子は心臓が悪く手術を控えているという直球な設定に苦笑しつつ、彼女が窓越しに「ケロロ軍曹」の新刊を主人公に貸し与えて以降、室内にはケロログッズがそこかしこに置いてあり、その後もしつこく「ケロロ軍曹」ネタが介入してくるので、思わず「かえるのうた」の画面のそこかしこに配置された、かえると比較しても、やはり、いまおかしんじには及ばないと思わざるを得ず、では何の為に「ケロロ軍曹」が介入してくるのかと考えても商業的理由以外には思い当たるフシもなく、無駄なものとしか思えなかった。
 それにしても、思春期の少年が3人登場し、年上の女の子までが登場し、そこに亀が首を伸縮させているのだから、当然亀というかガメラは、少年達の亀頭としての存在が直接的ではないにしても暗喩されていて然るべきで、この性的要素の皆無ぶりには呆れ果て、女性脚本家が少年を描くとこんなことになってしまう悪例の典型で、G3で事務所に怒られながら前田愛を無茶苦茶にした金子が描いていたらどうなっていたか、などと思わずにはいられなかった。
 少年達が駅のホームを歩いていくのを煽りで捉えたショットがハイスピードで撮影されているが、「ジュブナイル」のローソンから出てくるのがハイスピード撮影なのと同じく意味がなく、むしろホームに立つ少年達の決意を遥かに続く線路の縦構図と合わせて横移動でホームから線路を見せるなり、線路に降り立つ少年達をハイスピードで捉えればそれなりの意味もあったろうが、その直ぐ前のシークエンスで怪獣出現騒動があったにも係わらず、予想に反して電車がやって来たので引っくり返りそうになった。
 この作品で怪獣映画としてよくできていると思えたのは、避難所、病院の描写においてで、体育館で喚く主人公に津田寛治が周りを気遣って注意するところなど、なんでもない描写だが、怪獣映画では新鮮だった。病院のシークエンスでは、怪獣接近に従い、患者を安全地域に移動させたので、患者は廊下等にストラクチャーのまま寝かされているという描写など良かった。
 あまり怪獣描写に気が行っていないような作品ではあるが、それでも造形が原口智生だったり、視覚効果が松本肇なので、いくら特撮演出の金子功なる方が未知であっても、ベース部分がしっかりしているので大丈夫だろうと思っていたが、酷かった。今回のガメラ自体もたいがいなのだが、敵怪獣のジーダスの造形には本当に原口智生が係わっているのかと思うぐらいで、新世紀ゴジラのメガギラスとかでウンザリさせられた気分が甦った。又、レギオンやイリスといった洗練された造形が印象深いだけに、同じガメラを名乗りながらこれか、という思いはどうしても拭い難く、股の切れ上がったヒトが入ってまっせ的造形は辛かった。それにゴジラを下回る見せ方の下手糞さや、炎、爆発、粉塵の無造作な扱い、見せ方に腹が立ち、樋口真嗣の次というのは気の毒だとしても、いくらなんでもこれはないだろうと。
 一方本編側はクライマックスに進むにつれて、主人公のガキの糞生意気さが増し、こんな糞餓鬼は瓦礫の下敷きにでもなって死んだらええねんというこちらの念は残念ながら届かず、根拠のない妄想でガメラの元へ走って行っていたが、更にあるまじき御都合主義が介在してきて、呆れるというより、もうどうでも良くなってしまったが、ガメラと心を通わせる子供達という描写をやるなら、それなりに理詰めでもできるのに、それをやらないのは怠慢だ。
 田口トモロヲらの政治家描写にグッタリさせられ、終盤のでしゃばって来るガキ共に腹を立てながら映画は終わった。
 これはこれで楽しめるという幸福な観客も少なからず居るようなので、羨ましいが自分には極めて凡作としか言いようがない。