『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』

molmot2007-02-18

36)『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』〔BROTHERS OF THE HEAD〕 (シネマライズ) ☆☆★★

2005年 イギリス カラー ビスタ 93分
監督/キース・フルトン ルイス・ペペ    脚本/トニー・グリゾーニ    出演/ルーク・トレッダウェイ ハリー・トレッダウェイ ブライアン・ディック ショーン・ハリス タニア・エメリー
http://www.brothers-head.com/trailer/brothersofthehead_w11.wmv:movie=wmp

 
 高校のときに、こんな漫才のネタ台本を書いて実際にやったことがあった。
 「別れの季節やね」「ホンマやね、三月やもんな」「コンビ別れ、言うのも悲しいもんやな」「やすし・きよしとかな」「やっさん死んだ時のキー坊派手に泣いてたな」「ベイブルースとかな」「あー、河本な。今からエエとこ行けるいうところやったのにな」「でも一番悲しいコンビ別れ言うたらアレやな」「何やねん」「ベトちゃんドクちゃんの分離手術。あれは悲しかったな」「ようそんなこと言うわ」。


 相変わらずシネマライズの座席指定制度は鬱陶しい。ハシッコしか空いてないと座席表の特定の箇所を指して言うから、んじゃそこで良いと了承して、いざ始まってみたら、前の方や真ん中よりやや前はガラガラじゃねえか。始めに観客に提示される空いているのがココとココと言う情報に虚偽があるのだからタチが悪い。


 『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』は、傑作『ロスト・イン・ラマンチャ』のキース・フルトンルイス・ペペの新作で、予備知識が無くとも観始めれば直ぐに分かるが、フェイクドキュメントである。ドキュメンタリー監督が、劇映画を撮る際にフェイクドキュメンタリー形式を選択したのは分かるにしても、又、純然たるフェイクドキュメントではなく、“ドキュメンタリーを目指すフィクション”なんだと語っているにしても、かなりつまらなかった。
 フェイクドキュメントは、観客を最後まで騙しきれるかどうかが重要なのではない。その手法が如何に作品に調和して、表現として昇華できているかだと思う。
 残念ながら、この作品は、フェイクドキュメントの手法が作品に肯定的に働いたとは思わない。『ロスト・イン・ラマンチャ』のような、まるでフィクションのようなドキュメントを作ることができた才人キース・フルトンルイス・ペペにしてそうなのだから、その難しさが伺える。パンフのインタビューで語っていた根本的なフェイクドキュメント製作における問題点―カメラを不必要にブレさせるとか絶好のポジションに居過ぎるといった突っ込みは、正にそうで、分かりやすい例では、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』が駄目なのは、何より映画学校の生徒という設定でありながら、本当に映画を学んだとは信じられないようなカメラのぶん回しに辟易させられたからで、ハンディで撮っている以上、極力画面を安定させるのが当然の筈だ。
 しかし、そういう基本的な問題点を指摘しておきながら、この作品が巧く行っていないのは何故か。
 例えば『ロスト・イン・ラマンチャ』が、編集ソフトのタイムラインAの上に撮影したモノ全部を一本にして乗せて、そこから面白い箇所を抜き出してその上のタイムラインBに細かく置いていった上で作ったとするならば、本作は、タイムラインAには何もなく、タイムラインBに置かれるであろう断片のみを想定してその部分のみを作りこんで撮影しなければならないわけで(書いてから、ちっとも分かりやすい例えではないことに気付いた)、撮影素材の少なさと、又逆に完成した作品からは雑多な要素を入れ込み過ぎているので、シンプル化するべきだったのではないかと思う。
 『ベルベット・ゴールドマイン』にしても、架空のアーティストの場合、いくらモデルがあっても、その存在のリアリティが薄くなるのは致し方ないにしても、ドキュメンタリー形式を選択すると、その箇所に求められるものがより高くなると思うので、本作は、かなり高いハードルを自ら設定したのだと思えてしまう。その結果、フェイクが巧く行っていないという問題ではなく、描写の厚味に欠けるので、観ていてどんどん気持ちが遊離していった。
 人の眼に晒されない箇所に居た二人がそこを離れて人目に触れる世界へ飛び込む重要な決断点や、ライブ中に肌を晒す際の決断点など作劇上の重要な箇所を、ドキュメンタリーの表層的描写に依存して簡単に通り抜けようとしただけに思えてしまい(優れたドキュメンタリーはそういった描写上の決断点はしっかり踏み込んで捉えてある)、不満だった。ケン・ローチも全く生かされていなかったし。せっかく出すならフェイクで『ロスト・イン・ラマンチャ』と全く同じことをケン・ローチを使ってやってみました、という形にして欲しかった。