『蒼き狼〜地果て海尽きるまで』『映画ドラえもん のび太の新魔界大冒険 7人の魔法使い 』

molmot2007-03-10

46)『蒼き狼 地果て海尽きるまで』 (Tジョイ大泉) ☆☆☆★

2007年 日本 「蒼き狼〜地果て海尽きるまで」製作委員会 カラー スコープ 136分
監督/澤井信一郎     脚本/中島丈博 丸山昇一    出演/反町隆史 菊川怜 若村麻由美 袴田吉彦 松山ケンイチ Ara 榎木孝明 津川雅彦 松方弘樹


 ハロプロ映画且つSP映画並の63分しかない中篇『17才〜旅立ちのふたり』で、相変わらずのプロの力量を見せて、映画のお手本としか言いようがない素晴らしい秀作を撮り、健在ぶりをアピールした澤井信一郎4年振りの新作は、初めての大作となった。
 『男たちの大和 YAMATO』同様、本作も既に別企画として動いていたものを角川春樹が入って来て一気に実現化したもので、昨年頭から準備を始め、僅か半年の内に撮影を終わらせて完成させてしまった作品だが、当初角川春樹は、『未完の対局』『敦煌』など、アジアロケに手馴れた佐藤純彌を引き続き監督に当たらせる予定だったという。つまりは、『人間の証明』に続いて『野生の証明』を佐藤に撮らせたように。しかし、佐藤から体力問題で監督を辞退したいという申し出があった為、その場で澤井信一郎に電話し、本作の監督を即決で引き受けさせたという。『恋人たちの時刻』以来20年振りの角川春樹澤井信一郎の組み合わせということになる。
 基本的に、角川春樹の言動を持ち上げる気は更々ないが、映画に関する限りで言えば、正論が混じっていることが多いので、一概に電波扱いしようとも思わない。何せ、監督に澤井信一郎を据えたり、脚本は中島丈博丸山昇一で、撮影は前田米造で…と、一流のプロを集めているだけでも、他のプロデューサーより遥かにマトモな判断である。『椿三十郎』を森田芳光に、『用心棒』を崔洋一に、という判断も現在考えうる中では最良のもので、言ってしまえば嘗てプロデュースした監督達に過ぎないが、若手監督では信用できないからこういう監督にやらせるんだという判断は絶対的に正しい。少々角川春樹が妙なことを言おうとも、映画が根幹から崩れ落ちたり、近年の若手監督を起用した大作に見受けられる商品以前のモノになるようなことはないという安心感がある。
 作品を観てもその思いは変わらず、久々に子供の頃観ていた角川映画大作―ようは80年代の、大味だが観ていて楽しめた悪くないイベント映画―の姿がここにあった。かなり評判が悪いようで、古めかしい旧日本映画に過ぎないというような批判もあるようだが、『あずみ』や『バトルロワイアルⅡ』や『ドラゴンヘッド』『日本沈没』『戦国自衛隊1549』『どろろ』みたいな大味な大作にすらなっていない、商品になっていない不良品に比べれば、『蒼き狼 地果て海尽きるまで』は、遥かに映画であり、イベント映画的楽しさに満ちた大作である。
 日本語を喋ることの違和感から批判する声があるが、そういうことを言うヒトは、ここ4、5年で日本映画を観始めたのだろうか。これぐらいのことは、『釈迦』から『楊貴妃』から『敦煌』に到るまで日本映画で繰り返されてきたことであるし、何でもないことだ。
 
 映画としては、別に傑作とも思わないし、不満箇所もあるが、歴史大作としては満足できるものだった。
 開巻からまず素晴らしいとハッとさせられるのが、若村麻由美のアップを正確に捉えられていることで、日本映画で久々に映えるアップを観たと思った。それは若村に限らず以降、各出演者も悉くアップが良い。前田米造のフィルム撮影を観ること自体久々で、近年は『オペレッタ狸御殿』や『Last Scene』でのHD撮影でしかその仕事を観れなかったが、フィルムではやはり際立つ。殊に日活と東映の違いはあれども、澤井共々撮影所出身であることを意識させるのが、アップを際立つように撮られていることで、それを観れただけでも満足だった。
 ただし、それに相応しい役者が並んでいるかと言うと残念ながらそうはならず、役者不足を感じずにはいられなかった。 最も危惧していた反町隆史だが、『男たちの大和 YAMATO』ではそれほど出番も多くはなく、又、好演していたので意外だったが、流石に主役となると不安しかなかったが、小細工せずに役に染まっていたし、こちらも過大な期待をしなかったせいで、悪くないものになっていた。
 若村麻由美などは元来巧いし、『アリー・myラブ』の吹替えをやっていたというだけで、悪く言う気がしない個人的感情は兎も角、安定した演技で良かったものの、彼女一人に映画全体の演技の比重が掛かり過ぎているので迫力不足に思えてしまうのは気の毒だったが。
 菊川怜は、それほど出番も科白も多くないのが幸いした。
 そうなると、やはり力のなさを感じてしまうのは男優で、野村祐人など、とてもオイシイ役なのだが、声を張り上げる度に違和感と迫力不足を感じずにはいられず、袴田吉彦松山ケンイチにしても、モデル上がりを揃えては、こういった歴史大作では厳しい。

 この作品は、言ってしまえば『天と地と2』なのだが、合戦シーンにおける反町の掛声から、ショットのサイズも近い(撮影は共に前田米造)。更に、榎木孝明も出てくるわ、津川雅彦も出てくるわで、益々『天と地と2』状態になるのだが、アチラが内容空疎な上に、宗教に作品の根幹を求めた為に角川春樹の宗教観を下手糞に見せたにすぎなかった(ま、愛着ある作品ではあるが)が、本作はそういうこともなく、女性からの視点を明確に出して、チンギス・ハーンを描いているので諸々不満はありつつも飽きずに観ていられる。
 澤井信一郎の演出が突出するのは主に室内シーンで、総じて優れているので室内シーンになると映画の濃度が一気に上がる。シネマスコープで、人物をどう並べ、カメラをどう置いて、どう移動するかを観ているだけでプロの中のプロの力量を感じる。屋外でも、例えば少年期のハーンが槍を兄弟に向けるシーンで、槍が刺さる瞬間を横から煽りで捉えて倒れるショット一つとっても、思わず身を起こす巧みさに満ちているし、前述した近年の日本映画で大作と呼ばれる作品で何度も思った、何故こんな配置でこんなショットを撮るんだろうかという、芝居を活かさないショットへのイラツキは、本作では全く感じなかった。
 クランが如何にも後から角川春樹の一存で付け足したキャラクターだとか、ハーンと義理の息子との関係が終盤の見せ場の為には確執や、危険な任務地から帰ってくる描写がないのは不満だとか、何よりあの映画全体のリズムが突如狂う、演出が全く弛緩しきった即位式のシークエンスが、角川春樹演出であることが一目瞭然且つ、モブの後方の現地人エキストラが全く動きをコントロールされていないとか、文句を言い出せばキリがないが、映画を観たという満足感を味合わせてくれる本物の往年の角川映画が復活していて嬉しかった。

 

47)『映画ドラえもん のび太の新魔界大冒険 7人の魔法使い』 (Tジョイ大泉) ☆☆☆

2007年 日本 藤子プロ・小学館テレビ朝日・シンエイ・ADK カラー ビスタ 分
監督/寺本幸代     脚本/真保裕一    声の出演/水田わさび 大原めぐみ かかずゆみ 木村昂 関智一 相武紗季

(終盤まで触れています)

 声優陣リニューアル後の劇場版ドラえもん第二弾は、再びリメイクとなった。
 前作『ドラえもん のび太の恐竜2006』については、初見時に書いた通り→コチラ
 基本的に自分は『のび太の恐竜』のリメイクには、オリジナル版の作画にも演出にも満足できず、原作の面白さが十分に映画化されていないと思ったので賛成だったし、リメイク版の完成度自体にも一部不満はあれども上々の佳作だと思った。
 それだけに、リニューアルに成功した今後の劇場版ドラえもんにも期待が高まったが、次回作が『のび太の魔界大冒険』のリメイクと聞いた時には些か失望した。と言うのも、前述したように『のび太の恐竜』はリメイクする必然性があるが、原作、映画共にシリーズ最高傑作である『のび太の魔界大冒険』はその必然が全くない。敢えて言えば、映画版のクライマックスがスケジュールの関係か、やや駆け足になってしまったのが不満ではあったので、その点での是正ぐらいか。
 更に不安だったのが、前回見事な佳作に仕上げた渡辺歩の続投ではなく、若手の寺本幸代を抜擢したことで、評判は耳にしてはいるものの、劇場版長編、しかも『のび太の魔界大冒険』ではどうなのかと思った。
 又、何より怖れたのが、脚本に真保裕一が起用されたことで、いくらシンエイ動画出身とは言え、脚本に限定して言えば、自作を自ら脚色した『ホワイトアウト』がはっきり言って、全く巧く行っていなかったので、作家としては良いのかもしれないが、だからと言って必ずしも=で脚本家としても優れているというものでもあるまい。大体名のある作家が参加すると自らの刻印を残そうと余計なことをしがちではないか。
 もう一つ、タレントを重要なキャラクターで大量起用していることも気になった。職業俳優であれば未だ何とかなる場合が多いが、タレントを使うのは、その場しのぎの話題性だけに過ぎず危険である。美夜子の相武紗季、満月牧師の河本準一、メジューサの久本雅美などがそれに当たるが、久本雅美は未だ演技の面で可能性が無きにしも非ずとは言え、それ以外がどうなのか。

 といった様な不安を抱きつつ、深夜0時を過ぎた大きなお友達しか居ないシネコンで観た『映画ドラえもん のび太の新魔界大冒険 7人の魔法使い』は、考えてみればオリジナル版を23年前、5歳の時に地元の映画館で観て(その時自発的に買ったパンフが今でも手元にあるのがちょっと恐ろしい)、8年前には南街会館のドラえもんオールナイトで再見しているわけで、原作は子供の頃数え切れないくらい読み返し、ほぼ今でも暗記できているくらいだから、そんな作品のリメイクをまた観に行っているというのも妙な感慨に捉えられなくもない。この23年間、何をしていたのだろうか。
 本来、原作、オリジナル映画版共に再読再見してから観ようと思っていたが結局果たせなかったものの、単にオリジナル版との比較に終始する恐れがあるので、リメイクはリメイクとして観ることができて良かったと思っている。比較はDVDが出てからで良い。
 
 結論的に言ってしまえば、改悪はされていなかった。原作の要素はほぼ忠実に活かし、肉付け部分で新たな追加があったというもので、随分気を遣ったものになっている。ただ、逆に言えばそこまでして新たな要素を付け加える必要があったのか、ということになるのだが、それを言い出せばリメイクする必要があったのかという問題にもなるので、それ以上は言わない。
 従って、原作が圧倒的に傑作だけに、それを活かしている以上は悪くないものにはなっている。原作ファンやオリジナル版ファンが観て、名作を壊されたと怒ることは無いと思う。
 しかし、細部への不満はある。
 作画が前作の圧倒的力量で見せていたのに比べて、かなりショボイ。演出面でも前半は特にそうだが、やたらとナメ構図を多用したり、俯瞰や煽りばかりで、作品の世界観へと入り込むのを拒否しているかのようで、見せ方への不満を抱きつつ観ていた。
 殊に問題なのは、原作・オリジナル版にあった、おどろおどろしさが無くなってしまい、せいぜい台風で学校が休校になって帰る辺りで不穏感が出ていたが、それ以外では全く無く、「魔法」の持つ恐ろしさ、不気味さを、オリジナルではカール・ドライヤーの映画並に伝えていたことを考えると、それが欠けているのは世界観の成立の上でも残念だった。
 満月博士が牧師に改変されたのも、悪魔相手だけに逆に大きな意味を持ってしまうので良いとは思えなかった。
 のび太が、もしもボックスで魔法世界に変えた後、魔法を使うのが不得意なので学校でも馬鹿にされている中、自宅にしずかちゃんが来るという原作と同じシチュエーションにおいて、学校のシークエンスの次が自宅庭でしずかちゃんのレッスンで魔法を覚えようとしているのび太に飛んでしまうのが不満で、ここはやはり、オリジナル通り、しずかちゃんが心配して尋ねてきて、ドラえもんのび太は病気で魔法を忘れたというような言い訳を言っておかないと、以降ののび太の、この世界を知らない他の世界から来た他者という視点が活かされないし、ラストの美夜子とのやり取り(リメイク版ではココが酷いことになっている)への強調部分として必要だった筈だ。
 これ以降も、本作では、各エピソードの発端部分をはしょる傾向が強く、オリジナル版に比べて現代性を持たせたテンポアップを図ったと思しいが、各行動の動機付けとなる箇所を切ってしまっては、観ている側は点と点をポツポツと置いてあるものを観ているだけになるので、印象が散漫になってしまう。
 改変部分で気になったのは美夜子で、まず御馴染みの猫に変えさせられてしまうという設定を、始めは鼠だったのをドラえもんが怖がってしまうから、みんなの魔法で猫に変えるという設定に変更してあるのだが、全くの回り道に過ぎず、無駄に思えた。以降も鼠のままで、ドラえもんが怖がりながらも旅を続けるというなら兎も角、直ぐに猫に変えるのであれば単なる出オチに過ぎず、その間、かなり無駄な尺を取っていることを考えれば不要だ。
 更に、不在の母親という設定を新たに追加しているが、ここで描かれる母親像というのが、如何にも男性から見た母と娘の設定で、髪を伸ばす云々という設定の古めかしさには呆れた。更にちょっと驚いたのは、回想シーンで幼少時の美夜子が母親に髪を梳いてもらうシーンで、母親は「あなたはクセっ毛だから」というような科白を言うのだが、これは科白と言い、構図といい、『となりのトトロ』で、サツキが七国山病院に入院している母親を見舞った際と同じ科白ではないか。脚本段階で、これはトトロを容易に想起させるから変更しようとはならなかったのだろうか。
 『のび太の恐竜2006』に続いて気になったのは、住・食に対する不徹底ぶりで、大長編ドラえもんにおいて素晴らしいのは、生活空間を作り上げる作業、食事を丹念に描く描写だけに、残念だった。伊丹十三の映画が凄いのは、全作において食と性という人間の根源的欲求を描いてきたからだし、ドラえもんで性は『のび太の結婚初夜』という作品を作るなら兎も角、せいぜい、しずかちゃんのパンチラか入浴か、本作のようなヒロインへの淡い恋情程度のものだが、食は丹念に描けるのにしないのは困る。本作では、食事の用意が出来たと科白で言うだけだし、原作では二回はあった食事シーンが無いのは不満だ。
 魔界到着後の展開で目立った改変は、原っぱの横断を穴掘りに変えたことぐらいだろうが、あの磁石を狂わせる草原の不気味さが好きだっただけに改変が残念ではあったが。
 ドラミ登場後の、もしもボックスで元の世界に戻し、パンアップさせて「おしまい」という文字を出すのを今回もやっているのは好感が持てるが、フォントが如何にも段取りで置いてあるだけのうそ臭さに満ちているのが残念で、これはオリジナル同様、観客が本当に終わったのかと信用するようなものにしてもらいたかった。『のび太の魔界大冒険』と、成瀬巳喜男の『おかあさん』は、本編の中途でエンドマークが出てしまい観客を真剣に驚かせる作品なのだから(『下妻物語』にも同様のシーンがあるが、冒頭なので誤解する観客は居ない)、リメイク版においても真剣さが欲しかった。
 クライマックスシーンにかけては、原作にほぼ準じているので文句は無いが、最大の問題は終盤で、魔王の心臓へのダーツが成功した直後から主題歌並びにクレジットが流れ始めたので驚いた。茫然と観ていると、あの肝心の、のび太と美夜子が語り合うエピローグ部分が、静止画扱いで処理されている。これは、『のび太の恐竜2006』での漫画のコマでエピローグを表現したものとは根本的に異なる。作品全体のシメであり、余韻の箇所である重要なシーンが静止画での扱いで十分に描写できていたとは思えない。更に驚くべきは、その後動画で美夜子としずかちゃんが語り合うシーンが態々作られていて、前述した髪の毛を伸ばす云々といった、薄っぺらい描写をやっている。監督も作監も女性なのでそういった視点で、ということなのかもしれないが、そこまでがそういう視点で作っていないのに最後にそんなことをしても意味があるとは思えない。

 声優に関して言えば、やはり不満だった。そもそもレギュラーメンバーが、まだ安定期に入っているわけでも、ベテラン声優が揃っているわけでもないのに、そこに素人を混ぜると、どこにも安定した存在がいない(三石琴乃ぐらいか)中では、やはり頼りない。相武紗季は声が低いし、河本準一などせいぜい脇キャラで使えば良い所で、満月みたいな重量感が必要な役は明らかに荷が重い。それにしても、千秋のドラミも演技幅の狭さが辛い。
 

 監督に若手を抜擢したのは、脚本に名のある作家を入れたり、声優にタレントを大量起用したりと、外部から内容に口出しできるように(芝山努や渡辺歩でこんなことをやれば随分反発を受けた気がする)という考えがあったからではないかと邪推したくなるくらいで、名作の再映画化だから、少々触っても大丈夫だろうと、このようなことをしているのだとしたら、藤子・F・不二雄も浮かばれないだろう。
 既に来春へ向けての特報が流れていたが、まだスタッフも作品も分からないものの、『のび太の恐竜2006』のラインでの新作が観たいと思う。特報で、ドラえもんが双葉を持っていたので、次のリメイクは、アレか、という声もあるが…。