『天竺の日々この作品のタイトルは『石仏』さんです』『PARIS,TEXAS,守口』『愛憎弁当』『誰もが知りたがってるくせにちょっと聞きにくいマルクスのすべてについて教えましょう』『パチKILLジャポン』『わが身を鴻毛の軽きに比すれども寝てばかり…』『童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー』『俺の流刑地(略称・俺ルケ)』

molmot2007-03-15

第2回ガンダーラ映画祭「美しい国へ」

 昨年1月末に下北沢 LA CAMERAで行われた「ガンダーラ映画祭」の二回目である。こんな小さな上映会場で、古澤健山下敦弘向井康介女池充松江哲明村上賢司らの新作が連続上映されるというだけで凄いのだが、前回は舐めていたせいで、余技程度のものかと思っていたら、まさかこうも各監督が全力で弾を投げてくるとは思いもよらず、フラフラになった。ちなみに翌日は更にneoneo坐で「neoneo坐 研究上映会 TV-WORKS テレビドキュメンタリストの仕事 Vol.1」で5本連続で観ていたら、帰って寝込んだ。
 
 「第2回ガンダーラ映画祭」だが、「美しい国へ」→「格差社会」というテーマに相応しく、作品の完成度も格差ありまくりで面白い。
 作品が完成する遥か前に決められた筈のプログラムも、Aプロ、Bプロ連続で観たら実に納得するもので、山下・向井作品で引っ張り上げて、しまだゆきやすの水準を保った安定した作品を経て、後半の女池、松江、村上作品の濃密な連打でクラクラになりながら、お腹いっぱい過ぎる満足した状態で劇場を後にするという。大体、そうそう全作が傑作だったら気が休まる暇もないので、これぐらい作品に幅がある方が観客としては楽しい。
 山下敦弘向井康介松江哲明村上賢司の作品は、今年の日本映画の秀作なので要注意かつ必見。前半が傑作だが女池充の作品も際立っている。下北沢のLA CAMERAという小さな場でひっそりやっている上映会で、日本映画全体の中で見ても上位数十本に余裕で入る秀作と断言できる作品が、上映作品の中から50%ぐらいの比率で出てきてしまうなんて、全くありえないと思うのだが、本当にそうなのである。それだけ秀作と自信を持って言える作品が連続上映されているんだから恐ろしい。
 全8本、昨年に続いて濃密濃厚な作品ばかりなので、一気に観るというヒトは、くれぐれも体調を万全にして観ていただきたい。前回に続いて、ロフトとかで傑作選をやるんだろうが、既にもう『PARIS,TEXAS,守口』『童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー』『俺の流刑地(略称・俺ルケ)』をもう一度観たくてたまらない。あれらの作品の中に流れる時間に浸っていたいのだ。

第2回ガンダーラ映画祭「美しい国へ」

上映作品

【Aプロ】

『天竺の日々』 古澤健

『ライブ! YAMAMOTO』 山下敦弘向井康介

『愛憎弁当』 岡田裕子

『誰もが知りたがってるくせにちょっと聞きにくいマルクスのすべてについて教えましょう』 しまだゆきやす



【Bプロ】

『パチKILLジャポン』 戸梶圭太

『わが身を鴻毛の軽きに比すれども寝てばかり…』 女池充

童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー松江哲明

『俺の流刑地(略称・俺ルケ)』 村上賢司


【Cプロ】(特別招待上映)

会田誠のおたのしみ箱』 会田誠

ワラッテイイトモ、』 K.K.


会場◎下北沢 LA CAMERA
世田谷区代沢4-44-12 茶沢通り沿い2階


期間◎2007年3月15日(木)〜3月25日(日)
3/15(木) 18:00〜A/20:00〜B
3/16(金) 18:00〜B/20:00〜A
3/17(土) 16:00〜C/18:00〜A/20:00〜B
3/18(日) 14:00〜C/16:00〜A/18:00〜B
3/21(祝) 14:00〜C/16:00〜B/18:00〜A
3/22(木) 18:00〜B/20:00〜A
3/23(金) 18:00〜A/20:00〜B
3/24(土) 16:00〜C/18:00〜B/20:00〜A
3/25(日) 14:00〜C/16:00〜B/18:00〜A



会場◎大阪 PLANET+1
期間◎2007年3月31日(土)〜4月6日(金)
※詳しいスケジュールは後日発表


http://blog.livedoor.jp/gandhara_eigasai/

【Aプロ】
49)『天竺の日々この作品のタイトルは『石仏』さんです』 (下北沢 LA CAMERA) ☆

2007年 日本 スタンダード 分
構成/古澤健

 
 全篇に渡って面白くなる要素がゴロゴロ転がっているが、それを敢えて際立たせずに情報を並立化して、ゆるく描こうとしているのかなとか思うが、面白いものが終始画面内に横切っているのに、それを放置しているだけに思えた。
 妙に映画祭のコンセプトに忠実であろうとするあまりの、硬化なのかとか思いつつ観ていたが、『オトシモノ』で松竹相手に終盤でやりたい放題やってくれた監督だから、ガンダーラ映画祭をぶっ潰すような暴走作を期待しただけに残念。 ユートピアは西方の西荻にある、みたいな西荻世界中心思想でもやるのかと思っていたが。



50)『PARIS,TEXAS,守口』 (下北沢 LA CAMERA) ☆☆☆★★

2007年 日本 スタンダード 分
構成/山下敦弘向井康介

 
 山本浩司を主人公にしたドキュメンタリーだ、山本剛史を主人公にしたものだと言われていた、当初発表になっていた『ライブ! YAMAMOTO』から一転、上映されたのは『PARIS,TEXAS,守口』と題された作品に変更になっていた。
 企画が二転三転し、しかも山下敦弘向井康介共に新作が公開されたりと多忙そうなので、大丈夫なんだろうかと思っていたが、これが製作期間の短さを感じさせない素晴らしい秀作だった。

 開巻は、ガンダーラ企画の打ち合わせを行う山下敦弘向井康介らから始まる。昨年のガンダーラではオリジナル新作ではなく、『坂道』を再編集した『子宮で映画を撮る女』を上映したので、今年も『中学生日記』が上映されるのではないかと予想していたのだが、案の定、山下の口からは、『中学生日記』を編集し直して流せば良いんじゃないかという言葉が出る(個人的には、あの笑い過ぎて涙が出た大爆笑の秀作『中学生日記』を多くの観客に観てもらいたいし、再見したい)。しかし、やはりオリジナル新作を撮ろうということになり(ここまでのやり取りも実に自然なものだが、何せ相手は山下敦弘向井康介で撮影が近藤龍人と来ているから、どこまで自然な発言でどこから事前に打ち合わせての発言か判然としない)、そのハナシの中で、山下が新作『松ヶ根乱射事件』のパンフレットから、自作を1本、フィルモグラフィーから消したと言い出す。その作品とは『よっちゃん』であり、現在守口市の公共施設でしか観ることが出来ない。そこで、今一度『よっちゃん』を観るべく守口市に向かうことになる。
 移動描写もなく、直ぐに守口市内の市街地を歩く山下と向井の姿を観るだけで、御馴染み山下作品の二人組の系譜が展開される。それも撮影は近藤龍人で、と思うと既にこれから起こるであろうことを想像するだけで嬉しくなるのだが、道を尋ねた際に映りこむ、いかにも大阪的なオバハンの大仰な身振りだけで、関西人的には来た来たという思いが強まる。
 その予感は、撮影に協力したオッサンやオバハン達の身振り手振りから口調、その内容に到るまで、正に大阪人のそれであり、関西人的な自己愛と言われようが、このオッサンやオバハンがおもろいからしゃあない。
 守口市は、東大阪方面の“乾いた空気”に近いものがあったりして、良い街である。無闇にクラクション鳴らさない方が良いとか。おおさか映画祭を、本作にも登場する守口市民ホールでやっていたとか関係ないことを思い出したが、作品中で言及されたNHKに山下ら、大阪芸大映像学科一派が出ていた映像も、確かリアルタイムで偶々観ていて慌てて録画した記憶があるので、どっかにある筈なのだが。
 山下作品そのものを体現する二人による、自作『よっちゃん』を検証する旅だが、やはり大阪のコアな場所に二人が登場するだけで異物となって、それがそのまま映画としか言いようがないものになってしまうのかと感心した。これが二人が関西人なら、同じ形でロケ地を再訪しても、こうはならない。絶対に、オッサンやオバハンと五分で渡り合ってしまうのだ。例えば本作で、撮影に協力してくれたオッサンやオバハンは、『よっちゃん』について、「スジがようわからんかったな」「テーマが…」とか言いたい放題に言う。更には「あんたらも、もっと頑張ってええ映画撮れるようにならなあかんで」などと、まだ自主映画をやっている芽が出ない監督の如き扱いを受ける。しかし、この二人は、山下作品を思い返せばわかる通り、曖昧な表情のまま、じっと聞いている。もう、それだけで可笑しいのだが、関西人なら、いやいや今はかなり有名に、などと自己宣伝をやるのだが、そうはならない受けの姿勢のままだから、オバハン達の言葉が際立つ。
 それに、山下が『よっちゃん』を失敗したのは自分の判断ミスだと語るシーンに顕著だが、既に有名な監督や脚本家になって来ている自身達が、守口で撮った小さな映画を自虐的ネタにしているとか、嫌味な感じは微塵もない。だから、商業作品を撮る一方で『中学生日記』みたいな作品を撮っても傑作になってしまうのだろうが、その姿勢を好ましく観ていた。
 しかし、クスクス系の笑いだった山下作品は、『中学生日記』の爆笑系に続いて、本作でも爆笑点を幾つも持ってくるので、笑い過ぎて涙が出た。プラネット+1のなにわのロジャー・コーマンへのインタビューが何度かインサートされるが、もう座っている椅子だけでも可笑しい。守口のホールで当時上映された際の 舞台挨拶の映像でさえも、食事の準備に当たったと事細かに回想していたオバハンは、舞台上でも出した食事を列挙するは、主演の男の子は劇中で披露したという腹芸を何故か舞台上でも再現しているしで、笑い過ぎて腹痛かった。
 終盤の強引な『パリ、テキサス』もあるのだが、この二人が並んで歩いて、近藤龍人が撮ってしまうと成立してしまうのが恐ろしい。
 『リアル・リアリズムの宿』みたいなものだが、大阪を描いた作品としても突出している。
 繰り返し観ていたいと思った秀作だ。


51)『愛憎弁当』 (下北沢 LA CAMERA) ☆

2007年 日本 スタンダード 分
構成/岡田裕子


 夏にある個展で上映される作品の一部とメイキングみたいなものらしい。
 一応各作品20分という枠組みがこの映画祭にはあって、かなりの作品が数分オーバーしているようだが、もっと長く観たいという作品もある一方で、10分もあれば十分だったのではないかという作品もあった。
 本作も、作ってる弁当が女性器であると分かると面白くて、殊にスタッフがアソコの絵を描いて、ここが…とか言ってるのは爆笑させられたが。


52)『誰もが知りたがってるくせにちょっと聞きにくいマルクスのすべてについて教えましょう』 (下北沢 LA CAMERA) ☆☆☆

2007年 日本 スタンダード 分
構成/しまだゆきやす

 
 『私の志集 三〇〇円』に続いて観たしまだゆきやすの作品だが、マルクスとかポストモダンについての論考より、新宿を捉えたショットに惹かれた。『私の志集 三〇〇円』でもっと観たかったのは、しまだゆきやすによって撮られた新宿の風景だったが、たぶん絶対良い物に違いないと思っていたので、本作で色々観れたのは良かった。
 新宿副都心に住む作者から見た新宿副都心近辺の映像が素晴らしい。透明感ある映像の中で、その場に寝ている者からしか見えない視点で捉えられる民家の隙間から顔を出す高層ビルを捉えたショットの多くに惹かれた。(つづく)
 
 
 

【Bプロ】
53)『パチKILLジャポン』 (下北沢 LA CAMERA) ☆

2007年 日本 スタンダード 分
構成/戸梶圭太


 他人の作品、それも同じ映画祭に出品している監督による作品名を出して申し訳ないが、『不詳の人』を思いながら観ていた。


54)『わが身を鴻毛の軽きに比すれども寝てばかり…』(Ver3.13) (下北沢 LA CAMERA) ☆☆☆★

2007年 日本 スタンダード 分
構成/女池充

 
 まだ未完成なようなので、最終的なことを言うのは控えるが、再編集をすればひょっとして傑作になるんじゃないかという予感を漂わせる作品にはなっている。
 はじめて作ったドキュメンタリーということだったが、まさか、こんなに妻子との関係を赤裸々に曝け出すとは思っていなかったので、加減を知らない出し具合には驚きながら観ていた。
 前半は傑作だと思った。富士山に向かって歩いていく記憶、しかし帰ってきた記憶がないという妙に惹きつけられる言葉や、ナレーションを撮っている姿を正面から捉えたウエストサイズの画が何度か入ってくる違和感、そして占い師に向かって妻が語る、夫=女池充への思い―が辛辣で、コレ、はっきり言って他人事ではない。この手の上映会だから、映画映像方面、プロアマ問わず自主映画撮ってるヒトも含めて多く来るだろうが、フリーで仕事してたりすると、ここで妻が吐く言葉には、こっちの腹の奥まで何度も突き刺されるような、モロなことをズバズバ言ったりするので、悶絶しながら観ていた。
 ただ、この占い師というのは、作品の中での妻との関係性を曝け出す為の媒介でしかないと思っていたので、後半に延々と何が映っているのか分からないような暗い画面の中で占い師の言葉を聞かされ続けたのいは首を傾げ、本当に占いに行って来ましたというだけのものになっているのかと思うと、アララとなってしまった。勿論、最後に妻がそれを経て語る言葉など重要なのだが。何もこんなにダラダラと見せなくてもと。お陰で、白画面に文字が乗ったカットに切り替わると、一斉に客席の頭が上がるという。
 甲高い声でカラオケでYUKIを唄う姿とか、『愛の亡霊』の脚本を手に読む姿とか好きなのだが、今回上映されたVer3.13を経て最終版でどの程度の変化があるのか、気になる作品だ。
 ちなみに、映画に対するあなたの色は?と占い師に問われて即答で桃色とか言うのかと思った。
 


55)『童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー』 (下北沢 LA CAMERA) ☆☆☆★★

2007年 日本 スタンダード 37分
構成/松江哲明

アノネ、ちょっと話は変るけど、アメリカ映画で、パート2が面白くないのはなぜかわかりますか?(略)アメリカ映画では三幕で主人公は深刻な決断を迫られますね。それも善を取るか悪をとるかといった簡単な選択じゃない。(中略)選択の結果、主人公の心の最も深い奥底がさらけ出される。いわばこのストーリーの中でこの主人公は使い切られているんです。だから、仮にこの主人公が生き残ってパート2が作られても、もう出がらしになってしまっている。どうしてもパート1を抜くことができない

大病人」日記 伊丹十三

 
 特定の監督の作品を体系的に観ていくとして、その監督が続編を手掛けているかいないかで、その監督への理解度はかなり変わるのではないかと思うときがある。
 大島渚のように『太陽の墓場』が当初『続・青春残酷物語 大阪篇』と題した脚本を会社が用意したものの、「俺は断固として“続”のつく映画は撮らないんだ」としてそれを生涯貫く監督も居るし、『続姿三四郎』と『椿三十郎』を撮ってくれたお陰で続編へのアプローチを伺わせてくれる監督も居る。
 『続・激突! カージャック』という作品を撮った監督は、邦題こそ続であるものの、それは単なる興行側が勝手に日本でつけたタイトルに過ぎず、『ジョーズ2』のオファーも蹴り、インディ・ジョーンズシリーズで始めて続編映画を手掛けるも、前作との関連性は作品内では示されず、『ロスト・ワールド ジュラシックパーク』において、ようやく前作からのエピソードを引継ぎながらの続編映画を撮った。
 松江哲明は、『ほんとにあった!呪いのビデオ』シリーズの連投があったり、『童貞。をプロデュース』に『カレーライスの女たち2』とつけようとしたといった構想を語っていたことがあったり、『カレーライスの女たち2』を撮るなら、前作とは全く違う関係性の女性を撮ると語ったりと、続編趣向が伺えていただけに、一度是非正面から続編に挑んで欲しいと思っていた。
 『童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー』という作品を撮ると耳にした時、愈々「2」が入る作品を撮るんだと喜んだが、とは言え、「2」とつく作品も様々で、本作がどういった形式を選択するのかを考えたりしていた。前作の主人公がそのまま続投して、更なる困難に立ち向かう、又はタイトルだけは続編であるものの、新たな主人公或いは前作の主人公を起用しつつ、前作には一切触れない構造など。それに気になったのはアタマで前作ダイジェストをやるのかといった、前作との関係性をどう描くのか。果たして、前作を観ているヒトにしか分からない一見さんお断りの内容か、その反対か、又は見てなくても分かるけど、見ていれば更に楽しめるようなものか、などと考えていると面白かった。その時、フト『マルサの女2』みたいな感じかと思ったのだが…
 
 
 前作『童貞。をプロデュース』は結局3回観た。情報量の高圧縮で展開されるドキュメンタリーだけに、再見したくなってしまうのだ。
 本作の開巻は、松江哲明が走る自転車の主観で見下ろしたハンドルの映像である。前作の加賀氏がヘルメットにつけたセルフカムで自転車で疾走するショットを思い返しつつ、手早い繋ぎで自転車のスタンドが立てられるのを観ながら、平野勝之の撮る自転車との違いを考えながら観ても楽しい。
 アパートを昇り、一室を何度もノックすると窓から顔を出すのは一年ぶり登場の加賀氏で、まずは前作の主人公を見せることで、前作を観ている観客にとっては、当然笑みを持って彼を迎えることになる。
 ここで二回、前作の映像が一回り小さい画面で『童貞。をプロデュース』というタイトルを画面下に出しつつ短くインサートされる。アタマで前作をどう扱うかという気になっていた点が、前作の映像使用と、前作の主人公の登場という形で見せられたわけだが、彼に起こったとある理由によって、本作の主人公を務めることが不可能になり、彼の知り合いの童貞が紹介される。そして、加賀氏も同行する中、本作の主人公ドリーマー氏の住む秩父の山奥の実家へ向かう。
 この段階で、最初に掲げた伊丹十三の続編映画理論が正しく実行される。前作で、<深刻な決断を迫られ>た加賀氏は一つの選択をし、<選択の結果、主人公の心の最も深い奥底がさらけ出され>た。そして、<主人公は使い切られ>たので、<パート2が作られても、もう出がらしになってしまっている。どうしてもパート1を抜くことができない>ことになってしまう。従って、主人公を交代させる『童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー』の判断は、続編映画として正しい。
 
 松江作品御馴染みの室内の点描の巧みさは、『高学歴の女たち』でもOLの部屋にある本棚や、メモ帳に書いてある言葉を切り取っていくことで女性のキャラクターを補間して描いているのを観ても感嘆したが(←『カレーライスの女たち』ではなく、あまりヒトの観てない作品を挙げるイヤラシイ行為に出ましたよ)、本作でもより洗練を増し、加賀氏の部屋では、前作でも部屋奥で存在感を発していた中古ビデオのインサートが効果を出していたが、ドリーマー氏の部屋となると、彼の部屋は棚と本とLDなどに囲まれた居心地の良さそうな空間なので、より充実度が高まる。
 このシリーズの主人公は、松江哲明自身の姿が投影されている。前作で加賀氏に対して「かつての自分を見ているようで〜」というテロップが入ったが、本作のドリーマー氏も松江哲明自身だなと思うのは、既に先行して公開されていた本作のスチールからして思った。つまりは、本やLDが詰め込まれた棚を背にしたドリーマーの姿―を写したモノだが、そこは松江監督の部屋だと思っていた。観客からすれば、前作等にも登場する自身の部屋と同じに見えてしまう。既にその段階で同一性が伺えるが、『あんにょんキムチ』の自室でビデオを見続る姿や、家族との対話シーンと、本作のドリーマー氏の自室での描写と、家族との対話を比較しても、その近さを思う。それだけに、非常に揶揄気味な視点になってしまいがちな題材でありながらそうはならず、作者の被写体への愛情と、適度な距離感が観ていて心地良い。
 それにしても、今回の主人公の趣味が棚に並べられた本を切り取っていく過程で認識させられ、一般はどうか知らないが、コチラは非常に親しみを感じつついたら、一気に驚かされたのは、みうらじゅんばりのスクラッパーぶりで、この隙間無く埋められたアイドルの切り抜きは凄い。そして彼がこよなく愛する某80年代アイドルへの思いを(彼が作った自主映画では、彼女への思いが炸裂している様がインサートされるダイジェスト映像からも伺える)勝手に汲んで上げて(!)、彼女にその自主映画を見てもらおうということになる。そして、御馴染みDVカメラがドリーマー氏に渡される。

 松江作品の凄さの一つに遠隔演出がある。カメラを預けてしまい、撮っといて、という状態になる。往々にして、自主映画やドキュメンタリーで、「カメラアイ=監督の視点」が徹底しすぎて、撮影を他人に任せると、一発で世界観が崩壊するヒトもいるが、松江哲明の場合、例えば『2002年の夏休み』や『セキ☆ララ』では自身も含めた村上賢司らが撮影した複数の撮影者による映像を取り込んでいるし、『赤裸々ドキュメント』のメイン撮影は近藤龍人が担当しつつ、観覧車内のハメ撮りでは松尾章人にカメラを渡してしまい、松江自身は観覧車にも乗らず外で待っている。しかし、それで作品の流れが壊れることも、全篇自身が回した場合に比べて濃度が落ちるということも全く無い。だから、前作で加賀氏が撮影した、はっきり言ってかなり下手な映像であっても、全然余裕で作品化されてしまい、紛れもない松江作品にしか見えない。アラーキーがミエミエになるのは嫌だからとファインダーを塞いでしまい、覗かないで撮ってたことがあったが、そういうものにも通じるものがあるのかと思ったりする。
 今回が前作と大きく違うのは、ドリーマー氏が、実にしっかりした画を撮っていることで、普段勤務している清掃場内を捉えたショットなども的確で、働いている本人がある程度撮影の心得がなければ撮れないようなカットが幾つもあった。撮影が充実しているので、観ていてもスルスルと心地良く観て行けて、捨てられていた雑誌を漁り持ち帰る様子(知り合いが同じ様な場でバイトしていて、ビデオとか大量廃棄してあったりするから良いんだよ、というようなハナシを聞いたことがあったが、そういう拾ってる映像を実際に観ることができるというのも凄い)や、部屋に堆く積まれた持ち帰った雑誌などを俯瞰で捉えたカットなども良い。
 本作の個人的ツボはブックオフする映像で、『ラブ&ポップ』の指輪を買い求める為の所持金が刻々と表示されるように、購入冊数と価格を表示させながら、車で次々とブックオフ他の古本屋を回るコラージュが素晴らしい。その先々で出物を見つけて次々と購入していく姿を、店内にカメラを持ち込むわけではなく、車内から見た店頭のカットと、車内に持ち帰った本だけで見せていく。合間に食べる食事は、おにぎりとパンだけ。
 このシークエンス、他人はどう思うのか知らないが、自分は思い切りドリーマー氏に共感して観ていた。流石にここまでブックオフばかり行かないにしても、「別にいらないけど100円だから買いました」「つい買いすぎてしまいました」と語る言葉に、深い共感を覚えた。そう、いらないけど安いから買うのである。そして部屋が狭くなるのである。
 このブックオフするシークエンスにしても、松江自身のブログを読んでいれば分かることだが、ドリーマー氏に劣らずブックオフ等で買いまくっている。だから、妙なことや無駄なことをやっているという冷ややかな視点ではなく、共感を持ちつつ、寄り添い過ぎない距離を開けた描き方で見せているのがとても好きだった。

 以降の展開は、ここらで詳述を避ける。髪を自分で切っていく姿のちょっとした狂気性を孕んだ映像や、デートにあまり合ってない赤いベストを着ていく姿や、そこで起こる意味不明な突発的出来事(『竜馬暗殺』の全員空を見上げている直ぐには意味が掴めないシーン同様、こういう描写が映画を一段階上に上げてしまう)に痙攣を起こしそうになるくらい笑わされたりと、全部語りたい欲求に駆られるが、再見、再々見で更に作品の構造をよく観てからにしたい。ただし、終盤の展開には、驚き、感動し、笑った。劇映画を観ている以上に劇的な展開と、伏線の張り方の巧みさに唸らされ、これでこれ見よがしな狙いまくったモノになっていれば文句も言えるのだが、全くそうはなっていないのが不思議というか、凄いというか、憎たらしいというか…、でも紛れもない秀作だ。    
 
 『ガンダーラ映画祭』は、『探偵!ナイトスクープ』を一応やっているわけだが、チラシに書いてあるコンセプトや、顧問、秘書という肩書きの部分を除いて、作品を観ている限り、ナイトスクープ的と感じることは皆無に近かった。しかし、『童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー』は、かなりナイトスクープに近いことをやっている。だから自分は、第2回ガンダーラ映画祭というのは、下北沢のLA CAMERAでのリアクションよりも、月末から上映される大阪のPLANET+1での反応の方が気になる。それは本作だけに限らず、『PARIS,TEXAS,守口』は正にご当地映画だし、関西方面で上映されることの多い渡辺文樹を描いた『俺の流刑地(略称・俺ルケ)』にしてもそうだ。
 『童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー』の場合は、ブックオフ文化などの描写も、観客の大半が都心部在住者が占めるであろう東京の上映よりも、大阪の方がより身近に観客が感じるのではないかという気がする。実際大阪は、あんなところに住んでるヒトや郊外ブックオフは多いわけだし。
 ナイトスクープのネタに、『潮騒オタク』というのがあった。面倒なので、以前書いたものを引用する。

三島特集はレア作も並ぶので全て必見。「潮騒」は森谷司郎バージョンが放送されるのが凄い。所謂小野里みどりバージョンで、関西人にとっては90年代前半に放送された「探偵!ナイトスクープ」の『潮騒オタク』ネタで一躍有名になった作品。あの依頼者の、空気が数年間変わっていないような部屋の雰囲気も凄かったが、思春期に「潮騒」で初めて射精したことにより、以降「潮騒」でヌク人生を歩み、過去に映画化された「潮騒」を全て観て来たが、小野里みどりバージョンだけは観ることができない。そこでナイトスクープへ。で、散々童貞人生と「潮騒」でヌイた記憶を語らせ、東宝に頼み込んで上映してもらい、依頼者は満足している中、北野誠がケツを出して「潮騒」コスをすることで感動している依頼者を憤激させてオチ。というものだったが、恐ろしいのは「サイキック青年団」で語られた後日談で、まず部屋の雰囲気がおかしい。異様なまでの「潮騒」関連物の充実と、数十年分の雑誌「大相撲」が山のように積んである部屋。更に依頼者は立ち上がる際に机に手を着く時、掌を裏返してつけて立ち上がる。

 それは良いとして東宝での試写後、依頼者はビデオにして欲しいと懇願するが当然できないと断られたものの、依頼者は怯まずに何度も何度も頼み込み、その引かなさ加減は異常で、最終的に北野誠にいいかげんにしろと怒られ、何故ビデオがいるんや、今観たやろ?という問いに『いつでも観れるから』と答えたと言う。これ、趣深い言葉ですな。私も含めて思い当たるヒトは多い筈だ。『いつでも観れるから』という思いで、不要なビデオ、LD、DVDを抱え込んだのではないか。しかし、ここでまた恐ろしいのは、『いつでも観れるから』は=『絶対観ない』と断言できてしまうことで、『いつでも観れるから観ない』のだ。

 更に後日談を加えれば、94年頃だったかWOWOWで「潮騒」全作が放送された。勿論小野里みどりバージョンも。それを眺めながら、「潮騒」オタクは録画できて良かったなと思っていた。しかし、奴はそんなに熱狂的なのにツメが甘いのだ。程なくしてキネ旬を眺めていたら読者欄に「潮騒」オタク氏が、『私、先日のWOWOWの「潮騒」特集録画し損ねました。小野里みどりさんの「潮騒」を録画した方連絡ください』というような投稿をしており、住所名前を晒していた。発見するや爆笑し、何で録画してないのかと笑い飛ばした。朝日放送にも誰か録画してませんかと彼から連絡があったらしい。そんな森谷司郎の「潮騒」は自分も未見なのでこれを機に観たい。

 
 更に付け加えておけば、前記『サイキック青年団』で竹内義和は、この潮騒オタクの次なるターゲットは、小野里みどりであるとキメウチしていた。観れない筈の幻の『潮騒』が観れた→次は会えない筈の小野里みどりに会いたいと言えば会えるのではないか。と、考えるのがオタクの思考なんですよと、流石に出自が同じだけあって、妙な説得力を持たせながら語っていた。
 態々ナイトスクープの嘗てのネタを出してきたのは、それと『童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー』を比較して云々という為ではない。ナイトスクープ内でも同じ様なネタは幾つかあったし、本作の終盤の展開に近いものもあった。だから、大半の関西人が日常的にナイトスクープに見慣れていることもあって、大阪上映での反応が気になると書いたのだが、実際自分は本作を観ながら、一抹の危惧もあった。前作は絶対にテレビでは出来ない展開だったし、カンパニー松尾の素晴らしい言葉に感動させられもしたが、本作の展開は、下手すればナイトスクープもどき、サブカルナイトスクープというだけで終わってしまうのではないかと思った。終盤の展開を見ながらヒヤヒヤしていたが、似て非なるものだったので、安心しつつも驚いた。実際、かなりキワキワだと思う。一歩間違えれば、巧く出来てるけどナイトスクープやってるだけ、と言われかねない。ドリーマー氏の撮影が前作と違って格段に巧いこともあって、テレビ番組としても成立しているなんて言われかねない。
 しかし、ナイトスクープ等へのリスペクトも含みながら、明らかに孤高の地点に立っているドキュメンタリーだと言えるのは、童貞、地方、オタク、恋愛、サブカル、憧憬、アイドル、自主映画、家族といった多様な要素を盛り込んだ上で、格差社会を声高にではなく描写の中に巧みに埋め込んだ形で提示しつつ、作者が自分に近い要素を持つ他者(ドリーマー氏)への愛情と自己嫌悪に似た冷ややかな視線を交えつつ見つめる視点と、カメラを被写体に渡してしまうことで、作者がどれだけコミュニケーションを重ねても撮ることができない、濃密な個の空間を手に入れることができたことで姿を現した作品の独創性からして明らかだ。そんな際どさの中で、負の要素を持ちがちな続編という枠をも自ら設定して追い込んだ上で秀作を撮り上げた松江哲明は凄い。
 ただ、あまりにも綺麗な流れでスルスルと観れてしまっただけに、ブログによれば20分近く長いバージョンが存在するようなので、そこには枝葉の部分が相当埋まっているのではないかという予感がする。そういったメインの流れとは違う枝葉に魅力的なディテイルが埋まっているような気がして、観たいという欲求に駆られる。

 
 ここで再び伊丹十三が登場する。
 『童貞。をプロデュース2〜ビューティフル・ドリーマー』は、『マルサの女2』だった。前作の加賀氏は山崎努で、今回のドリーマー氏は三國連太郎だと言っただけで、直ぐに納得してもらえるか心許ないが。
 20代前半の女性と本作を観る前に期待を語っていたら、自分は受け付けないと言う。何がと聞くと、ドリーマー氏の雰囲気が、スチールで公開されていたヘルメットをかぶったあの表情だけで駄目だと言う。加賀氏は、サブカル系にありがちなお洒落な雰囲気もあるし、キモいことをやっても観れるが、ドリーマー氏は生理的に受け付けないのだと言う(ドリーマー氏、申し訳ない。自分はブックオフ回りをするアナタにかなり共感の思いを抱いて観ていた)。確かに本編を観ていても思うが、加賀氏は陽性なので、ノートに自分の思いを綴ったり、いきなり唄いだしたりしても、キモカワで行けてしまう箇所がかなりある。ドリーマー氏は内側で自己完結しているので、観客側が思いを馳せにくいキャラクターだ。一般受けという意味では前作の方がより多くに受けると思うが、そんな観客に媚びた続編など作ってたまるかと松江哲明が思ったのかどうかは分からないが、明らかに前作からの継続した期待を持っている層を裏切る意図と、観始めてから違うことに失望を感じる観客に、全く別の面白さを提示することに腐心するという、自身への追い込みをやってのけて、見事に成功している。
 この作品の正続関係は、『マルサの女』と『マルサの女2』の関係と極めて似ている。
 『マルサの女』の山崎努は、悪人ではあるが、極めて陽性な魅力的キャラクターで、観客の感情移入もたっぷりに見せられる存在だ。一方『マルサの女2』の三國連太郎は、悪どいだけで観客の感情移入がされにくいドギツイ存在だ。しかし、終盤になれば、山崎努とは全く違うが、妙な愛着をわかせてしまう。
 ドリーマー氏も、終盤に見せる表情の素晴らしさを見ればわかるが、三國連太郎に通じる、それまで受け付けないヒトには全く駄目であろう雰囲気を醸しだしながら、観終わってみれば、妙な愛情を持たせてしまう得難い存在になっている。
 松江哲明の続編とは、前作からの流れは活かしつつも、破壊した上で新たなモノをその上に建ててしまう極めて挑戦的なモノだということが分かり、そうなると、『カレーライスの女たち2』はどうなるのか、などと考えてしまう。



56)『俺の流刑地(略称・俺ルケ)』 (下北沢 LA CAMERA) ☆☆☆★★

2007年 日本 スタンダード 分
構成/村上賢司


 ブログなどを読んでそのまま鵜呑みにしていると、スケジュールに追われて雑な編集のまま見せられるんじゃないかと思ってしまうのだが、毎度ながら編集の丁寧さ、構成の良さに直ぐ作品の世界に入れてしまう。
 商業作品も一方で数多く製作しながら、自主制作の場に戻ってきても、何ら世界観が崩れない。普通なら、少しは薄くなったり、ヤワになって商業主義に染まってきたなとか言いたくなるではないか。それが全くないこの器用さは何だろう。数十億円渡せば、普通に大作映画を職人的に撮って、翌日はまたDV片手に炬燵に入っている自分を撮ってしまえるという気がする。

 村上賢司版『ゆきゆきて、神軍』とも言うべき『俺の流刑地』は、渡辺文樹監督を描いた作品だ。
 まず、とても好ましいのは、村上賢司渡辺文樹への視点だ。単なる揶揄、半笑いのバカにしたようなものでは全く無く、かと言って無闇に信奉しているわけでもない。シニカルな引いた視点や、そこから発生する笑いも入れつつリスペクトするのがとても良い。
 
 渡辺文樹の作品は、非日常であるという設定に納得する。日常の繰り返しがある時止まる。それは、渡辺文樹の映画が自分の街にやってきた時だ。
 村上は、盛岡へ向かう。そして非日常の入口である街に貼り巡らされたあの異様なポスターを貼る過程を追う。いつやって来て、いつ貼って、いつ去っているのか。あの御馴染みのポスターがどうやって貼られているのか、その瞬間を記録したこの映像は必見である。ちょっと凄いとしか言いようが無い貴重な映像になっている。
 近年の姿を見ていなかったので、渡辺文樹が老いていることに些か驚きつつ、巨漢を揺らしながら発する言葉は、気違いのものでも何でもなく、正論であり、撮影所時代の映画人みたいな、映画で生きてきたヒトの言葉だった。それは何も、大層な格言を言うとかではない。『67歳の風景 若松孝二は何を見たのか』で見たものと同じものだ。本人たちは、撮影なり宣伝なりをやってれば良いハナシなのだ。勝手にメイキングだ、密着だのとやっているだけなのだから。しかし、近くにカメラを持った“監督”が居れば、やはりその監督の為を思ってしまう。だから、自分やるべきことがあるのに、若松にしてもそうだったが、こっちから撮らなくて良いのか、引きは?と尋ねて、監督が撮りたがっている画の為に協力を惜しまない。インタビューをすると言えば、三脚は無くて良いのかと尋ね、近くの自販機の音が五月蝿くないかと尋ね、コンセント外しちゃえ(!)と外させる。ある程度の規模で撮影していればそれぐらいやるのだが、DV一台で内臓マイクで撮るようなものでは、そこまで気にせずにやってしまうものだ。しかし渡辺文樹は、自分の作品でも無いのに、そういうことを気にするというのが感動的で、雑誌等での、過激な映画監督としての虚像しか知らないので、こういうヒトなんだと思いながら観ていた。その姿勢はプロの映画人のものだ。
 ビデオで撮ってしまえば良い物を、35mmで撮って、16mmにして巡回し、音も『御巣高山』ではカセットテープを順番に再生しながら音を出すという信じられない方式でやっているが、ケーブルを捌いて、重い映写機を妻と抱えて上映を準備していく様子を見てしまうと、もうビデオで撮ってプロジェクター上映すりゃ良いじゃないですかなどと軽々しく言えない。
 『ゆきゆきて、神軍』について、誰が撮ったって、被写体が面白いんだから面白くなるに決まっているという表面的な批評を読んだ時は唖然としたが、本作だって渡辺文樹を撮れば、誰がやったって面白いものになるなどと言われやしないかと心配になるが、村上賢司にしか撮れない渡辺文樹を映し出した秀作だった。
 渡辺との邂逅を経て、映し出される村上自身の顔にカメラを向けて撮られた表情、自宅の点描。ふつふつと自主映画を撮っていた頃の思いが甦る様などとても良い。
 終盤の家族を捉えた、カーテンを介する奇妙な画面にも惹かれた。高橋洋が観れば、絶対思いもかけないこと言いそうなショットだが、渡辺同様、妻子を持つ映画監督の家族を撮った奇妙な画だった。