高橋洋監督作『狂気の海』大阪PLANET+1にて2月23日〜3月7日レイトショー公開


 東京では完成披露上映以降、幾つか関係者を主にした形での上映が行われた高橋洋監督の新作『狂気の海』だが、未だ一般公開されていない。多くの観客と共に再び劇場で本作を観たいという思いに駆られるが、大阪では一足先に一般公開されている。しかも沖島勲監督の『一万年、後‥‥。』とのカップリング上映というから、既に別々にこの二作を観ている者としては、感嘆してしまう。あまりにも、ぴったりで、そして狂った二本立てだと思うからだ。更にもう一本別のカップリング作をと言われたら、大和屋竺の『愛欲の罠』を挙げたくなるような、聞いているだけで興奮する並びだ。こんな気違いじみた二本立てを何食わぬ顔でレイトショーしてしまうPLANET+1は、やはり恐ろしい。

 34分の低予算自主映画だからと言って、映画の幅が狭まることを拒否する高橋洋の姿勢は絶対に正しい。
 開巻のハワイの海岸からして既に唯事ではない始まりだが、続く室内のショットで、あらぬ格好をした男が机に向かって書きものを進めるという状況も異様でしかない。これは何だろうかと思っていると、「エジプト人だって?」という独白に、顔を上げてカメラ目線で「違う」と言い放ってしまう段階で、この作品は、何かとんでもない映画になるなという予感に駆られる。以降は、ちょっと恐ろしくなるほどスケールの大きな話になっていく。ムー帝国の末裔の富士王朝の僅かな生き残りである語り手から、日本国総理夫妻、日系四世のFBI特命捜査官の登場、日本国憲法9条、霊的国防、植木鉢から呪の藁人形、富士山、ロケット、人工衛星…などと書き出せば、余りの脈拍の無さと34分の自主映画でそれらがどう登場し、展開するのかと思われそうだが、高橋洋の凄さは、こんな無茶苦茶な並びにしか思えないものが、的確な演出とショットの積み重ねと構成によって、本当に34分で結実させてしまうことだ。
 前半は、首相官邸で総理夫妻の会話が続くが、切り返しと縦の構図での人物の配置が素晴らしい。又、蜂の効果音が不気味な効果を上げている。このまま室内劇として終始しても相当面白い作品という印象を残すだろうが、作品の規模を考えれば会話とアクションを限定された空間で展開させ方が良いのだろうが、この作品はそのままでは終わららない。
 冨士の裾に舞台が移り、ここからの一大スペクタクル描写は、確かに表面的にはチープかもしれないが、的確なショットの繋がりによってチャチさを感じさせない。作り手が、如何にもチープな特撮をこれ見よがしに見せたり、失笑を買おうとしているのが見え透けば鼻もちならないが、本作では、ここでロケットが発射される必要があり、富士山がこうなる必要があったのだから、必然性に駆られて作られた特撮シーンは実に堂々としており、表面的な部分に捉われている場合ではない。デジタル技術によって合成も容易になり、世界観は予算規模に関わらず、幾らでも広げることは可能になった。勿論技術や予算の差によって表面的な部分での違いは明らかだが、それを補うだけの的確な演出が存在すれば、本作のような『日本沈没』より何十倍も面白い作品が生まれてしまうのだから、デジタル技術が自主映画にもたらしたものは大きい。ところが、意外と特撮を標榜する作品はそこにのみ腐心し、本作のような体裁を持つ作品がもっと多く存在しても良い筈だが、『ルック・オブ・ラブ』にしてもそうだが、熟練の映画作家の方が、遙かに過剰にデジタルや特撮をドラマに取り入れている。

 『狂気の海』と同時上映される『一万年、後‥‥。』も、同じく普通ならばその規模では不可能なスケールの大きなハナシだ。しかし、的確な演出によって出来てしまっている。
 沖島勲高橋洋の過激さが若き映画作家と観客を刺激したならば、日本映画の風景が変わるに違いないと思ってる。それだけに、この二作がカップリング上映されるというのは非常に象徴的で、東京でそれが未だ行われていないのが悔しい。PLANET+1に向かうことが出来る特権的な関西在住者への羨望を元関西在住者としては感じないわけにはいかないが、この狂気の二本立てが日本映画の新たなる風景であることは間違いない。それが新人の映画作家によって行われていないことを悔やむ声が挙がることを望んでいる。

『狂気の海』
2007年 日本 映画美学校第9期高等科コラボレーション作品
脚本・監督/高橋洋  出演/中原翔子 田口トモロヲ 長宗我部陽子 浦井崇 宮田亜紀 松村浩行 上馬場健弘 藤原章 本田唯一 安藤博之
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