『崖の上のポニョ』(☆☆☆☆)

 東京厚生年金会館で、宮崎駿の『崖の上のポニョ』を観る。

 一貫して宮崎駿のファンだが、劇場作品で文句なしの傑作を挙げるとなると、『となりのトトロ』『天空の城ラピュタ』『風の谷のナウシカ』『ルパン三世 カリオストロの城』『千と千尋の神隠し』の5本をその日の気分で順不同で回していたいという気がする。勿論、それ以外の『魔女の宅急便』『ハウルの動く城』も秀作だと思うし、それよりはやや落ちるものの、『紅の豚』『もののけ姫』も好きだけれども。

 『ハウルの動く城』から4年ぶりの劇場アニメとなった『崖の上のポニョ』は、宮崎駿の漫画映画への回帰とこれまでのフィルモグラフィーを総まとめにしたような印象を持たせる素晴らしい傑作だった。ここまで良いと思っていなかっただけに、上映中半分以上は嗚咽していた。もうすぐ三十になろうとするオッサンが五歳の少女を見て泣き倒すのは不味いと涙をこらえるのに必死だったが、上映が終わってみると泣き過ぎてボロボロになっていた。

 開巻の月と船が出ている海の情景からして引き込まれる。今回の作品は、近年の緻密な作画から一転、手書きタッチの画で見せる。これが素晴らしい。ジブリ美術館の短編を何本か見ていれば、本作の作画には驚くことなく受け入れることが出来るだろう。美術館の作品で言えば『くじらとり』『水グモもんもん』といった作品との関連が顕著だが、『ハウルの動く城』を観たとき、『千と千尋の神隠し』やジブリ美術館の短編作品からの連続性から言えば違和感があり、これは当初の監督が降板したことから、ジブリには監督できる人間がトップの二人しか居ない為、宮崎駿が仕方なく受けた仕事ではないかと思った。職人技術の切り売りとバランスを失するほど自身のやりたい箇所だけ派手に描いているところからしてもそれが伺えた。『崖の上のポニョ』を観ると、その思いはより強まった。本作が『千と千尋の神隠し』に続く作品であれば、全く違和感なくその作風の変遷を受け入れることが出来る。
 そういう意味で、本作は近年『くじらとり』や『めいとこねこバス』などで瞠目させられた幼児の動き、仕草を実にリアルにアニメーション化させてきた宮崎駿の到達点と言えるのではないか。


以下、ネタばれ含む内容となる。


 海底の様々な魚を描く幻想的なシーンに圧倒されていると、『ハウルの動く城』のハウルを思わせる魔法使いが登場する。彼を避けるようにさかなの子が窓から出てくるところからして心を奪われるが、海底から地上へとやってきたさかなの子が、崖の上の赤い家から海に降りてきた宗介と出会い、ポニョと名付けられる。宗介はポニョをバケツに入れて持ち帰る。魔法使いはポニョを取り返すべく陸上に上がってくる。宗介は幼稚園に行かねばならない為、ポニョを連れて母の運転する車で出発する。ここからの車の走りの描写が素晴らしい。まるで『ルパン三世 カリオストロの城』なのだ。往年の冒険活劇アニメを作っていた頃を彷彿とさせる激しい走りで、車体はありえないほどに揺れ、ガードレールギリギリを疾走していく。更に走りながらサンドイッチを食べるのだが、これが良い。この作品は以降も宮崎駿の<食>がいつも以上に触感的に何度も出てくる。それにしても、この車の走りからして往年の漫画映画時代への回帰を思わせて興奮させられる。
 母の勤める介護施設と幼稚園は併設している。この段階に至って車窓の風景から見える建物などから換算して、この作品の世界観は、昭和30年代と現代がミックスされたような世界だと想像できる。宮崎駿は『もののけ姫』の後、未映画化企画『煙突描きのリン』などで現在の日本を描き、女性を描こうとした。しかし、結果映画化された『千と千尋の神隠し』の千尋を見ても分かる通り、冒頭五分ほどで早々にその目的は挫折し、いつもの宮崎映画のヒロインとなっていきいきと画面を飛び跳ねていた。それで良いと思う。若い頃なら兎も角、何も今の宮崎駿が現在を描こうとする必要などないと思う。自分の好きな時代をツギハギして魔法が不思議ではない世界を何の違和感もなく作り出してた。
 介護施設には、『ハウルの動く城』を思わせる老婆達が居る。隣の幼稚園の構えは昭和30年代だ。本来なら違和感の感じるこのツギハギ感も前述の派手な疾走シーンで垣間見せる車窓の風景もあってそのまま受け入れることができる。
 宗介は、裏の崖を降りて、バケツにポニョの為に海水を入れようとして海から来た何かにポニョを連れていかれてしまう。
 ポニョを失い、落胆する宗介だが、船長をしている父の帰りが延期となり、母も落胆する。二人がだらんと部屋に寝転がる描写は、『となりのトトロ』でサツキとメイが母の帰宅が延期になったと聞いて寝転がっているシーンをも思い返させるが、ここで本作の母は起き上がって、あろうことか『となりのトトロ』のオープング曲『さんぽ』の一節を口ずさむのである。いくら宮崎駿がセルフリメイク的シークエンスを繰り返してきたとは言え、旧作を直接取り込んできたことなどこれまでなかっただけに、ほんの一瞬のことだが観ていて驚いた。或いは『となりのトトロ』は、『めいとこねこバス』という唯一の続編を生んでいることから、そういったことが自身で許容できる作品なのだろうか。
 父からの連絡で、窓から照明灯の点滅信号で会話するシーンも素晴らしい。殊に腹を立てている母が、照明灯を激しく点滅させて罵詈雑言の信号を浴びせかける呼吸は、『紅の豚』以来ぐらいの笑いがあった。

 海底では、魔法使いの男がポニョの父親であることが観客にもわかるようになる。ポニョは人間になりたい、宗介に会いたいと言う。ポニョは宗介の血を舐めていたので、強くそう願うことで人間に近い姿に変形していく。足が生え、手が生え、巨大化してくる。その変身途中の大きな目に口は、まるでトトロのようだが、遂には結界を破って地上へと向かう。
 地上ではそのせいか突然嵐が吹き荒れ、宗介も海の傍を母の運転する車で波が真横に迫る中、家へと向かう。その時、幾つもの波の上をパタパタと走る五歳ぐらいの少女が見える。このシーンには圧倒された。車が疾走し、それを追うように波がうねり、その上を少女が走っているのだ。そんなありえない光景を眼前にしながら、観ていて涙があふれ返った。それに近い描写のある『マインド・ゲーム』を超えたと言って良い。ちなみに少女の造形は『となりのトトロ』のメイとほとんど同じである。
 そして、家に何とかたどり着いた宗介に少女が追ってきて抱きつく。直ぐにそれがポニョであることが分かる。ここでは不味いというぐらい観ながら嗚咽していたが、隣のハゲのオッサンも大泣きしていたので良いかと思い遠慮なく泣いていたが、これはもう、たまらなかった。
 ここからの家の中の描写の素晴らしさは、単に良いというだけではなく『パンダコパンダ』や『となりのトトロ』で、家に初めて来た時の描写と遜色のない、むしろそれを超えたと言って良い描写ゆえに圧倒される。ポニョをタオルで拭き、椅子に座らせ、飲み物を飲ませるといった何でもない描写の厚みには、何度でも観たいとしか言えない。殊に何でもないインスタントラーメンを宗介とポニョに食べさせるシーンが凄い。これまでの数々の宮崎作品の<食>の中でも一二を争う出来ではないか。
 ポニョが寝ている中、母は宗介に介護施設へ向かうと告げる。食べ物を残し、宗介に留守を托す。
 翌朝、町は洪水となっている。ポニョが宗介を起こし、外を眺めると床上ギリギリまで水が来ている。
 これを観て、『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』だと興奮した。この作品には過去の宮崎作品を想起させる個所が何箇所もあるが、まさか高畑勲の監督で宮崎は脚本・美術設定・画面構成で参加した『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』の洪水シーンまでやるとは思わなかった。一階が水に漬かり、二階に家具を運んで、二階の窓からベッドを船代わりに出して洪水の町を行くという、幼少時に観ていて胸が高鳴った忘れることができない設定だったが、今回は一階の床上ギリギリまで水が来ている。しかし、しっかりと水面に顔をつけて、庭だった場所に魚やらが泳いでいるのを見るというシーンも入れているので嬉しくなった。
 洪水の町を二人は母を探しに行こうとする。何を舟にするのかと思っていたら、おもちゃの舟をポニョに魔法で大きくさせてそれに二人が乗り込むのである。舟が洪水で一変した町を行くシーンが素晴らしい。今回の作品に飛行シーンはないが、水位の上昇で、まるで飛行しているかのように見える。
 この夢のようなシークエンスは永遠と観ていたい思いに駆られる。『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』で幼少時の台風や洪水にワクワクした気分を思い返させてくれたが(本当に洪水になれば何も楽しくはないのだが)、まさか宮崎駿の新作で再びそれを味わうことが出来るとは思っていなかったので、ひたすらその一変した世界を嘆息して眺めていた。
 終盤、ポニョが人間になれるか、さかなの子に戻るかという展開があり、漫画映画らしい終わり方をする。観ていて胸がいっぱいになった。
 ラストのクレジットは、あの耳について離れない主題歌と共にジブリ美術館の短編同様、役職を全て省略した全員を一斉に記して終わる。

 『もののけ姫』以降は2時間前後の長尺傾向だった宮崎作品の中では、今回は101分ということもあり、シンプルで無駄のない構成になっていた。
 本作は、宮崎作品の集大成にして原点回帰を果たした傑作と言える。何故、今に至ってこんな初々しい新人監督のような作品が作れてしまうのか分からないが、この傑作を、二度三度と見返して噛みしめたい。
 声優に関して言えば、殆ど違和感なく聞けたが、唯一、所ジョージのみ引っ掛かった。何か海の生物でもやらせておけば丁度良かったのだろうが、かなり台詞量の多い役だけにミスキャストではないかと思った。こういう役なら、山寺宏一あたりが当然ながら遙かに上手く演じたのではないか。
 蛇足的に言えば、ここまで観客の子供に向かってサービス精神過剰なまでに盛り込んでくれているのは、どうも一昨年に息子が商品以前の映画を作ってしまい、それを子供に見せてしまい申し訳ないことをしたという贖罪の気持ちからなのかとも思う。