『ニセ札』(☆☆★)

(124)『ニセ札』
☆☆★ ヒューマントラストシネマ文化村通り
監督/木村祐一  脚本/向井康介 井土紀州 木村祐一  出演/倍賞美津子 青木崇高 板倉俊之 木村祐一
2009年 日本 カラー 94分

 井土紀州向井康介。現在の日本映画で最高の組み合わせと言って差し支えない脚本家二人がオリジナルで実話を基にしたニセ札のハナシを書く。これほど興奮させられる出来事があるだろうか。もし、まだ監督が決まっていないと耳にすれば、どの監督が相応しいか無邪気に挙げていきたくなる。井土紀州瀬々敬久山下敦弘森崎東小林聖太郎、といった名前が立ちどころに出てくるが、もっと極端に、今村昌平前田陽一といった重喜劇を撮れる監督が生きていれば、さぞかし面白いだろうとも思う。もっとも存命中でもイマヘイはありえないだろうから、思い切った若手で、自分は苦手だがそのニオイを持つ石井裕也というセンはどうか、などと無責任に言いたくなる。
 元々は、土本典昭が23年前に企画していた劇映画が本作のモデルとなった「チ―5号」事件で、既に膨大な資料が集められていたが頓挫し、土本典昭と係わりの深いシグロのプロデューサーがその資料を引き継いで本作が完成したという。つまりこの作品は、日本映画史を縦断する、本来ならば交錯する筈のない映画人が混じり合うことで現代に蘇った企画なのだ。当初は向井康介が単独でシナリオを書き、第1稿を仕上げ、その後に井土紀州が加わり、改めて1から共同で作り直したという。その意味では正に純粋な共同脚本と言えるもので、冒頭に書いたように最高の組み合わせのオリジナルシナリオということになる。しかし、それが実際に映画となる時に、何故、木村祐一が監督になり、脚本にまでクレジットされてしまうのか。木村祐一が悪いと言っているわけではない。『4時ですよーだ』の頃から見ているのだから嫌悪感を持つわけがないし、『松ヶ根乱射事件』の木村祐一の素晴らしさは、山下敦弘は木村主演で今後撮り続けるべきだとまで思うほどだった。しかし初監督で、尚且つ本作のような題材はかなりハードルが高いのではないかと思えた。
 それでも期待は抱きつつ観たが、茫然とするくらい酷かった。『シナリオ 6月号』に掲載されたシナリオも後で読んだが、基本的にはシナリオに沿って撮られている。但し、説明は異様に増えている。冒頭で太平洋戦争と終戦のバカ丁寧な説明が字幕で示されるが、まさか向井康介井土紀州がこんなことをするのかと思っていたが、掲載されたシナリオにはないので編集段階で付け加えたのか。この段階で観客のレベルを舐めているとしか思えないのだが、その後、更にとんでもないことに、それまで各シーンで登場してきた村の人物が一堂に会していよいよニセ札を作ろうと決める席で、それぞれの役割分担を決める際に一人一人を映し出すのは良いとして、画面下に○○担当××××と名前を字幕で出すのだ。顔も覚えられないほど数十人が次々と出てくるわけではない。ほんの数人のこれまで登場した人物たちで、台詞でも「○○は××さんに担当してもらいます」と言っているのに、更に字幕まで出す必要がどこにあるのだろう。その後にもまだある。木村写真館と大きく書かれた看板の出た店の全景を映したショットに「木村写真館」と字幕が出た時には流石に、観たら分かるわ!と突っ込みを入れそうになった。実話をベースにしているとは言え、ほとんどオリジナルの設定で実録風に作っているわけでもなし、シナリオに書いてもいないことを、分かりやすくするという名の下で平気でやる映画は信用できない。
 字幕だけでもそんなことだから、各人物は非常に薄っぺらで深みもない。これは監督の責任だけとは言えないかも知れないし、監督さえ違えば傑作になったとは言えないかもしれない。しかし、シナリオを読めば演出で濃くできると思った。それこそ『果しなき欲望』クラスのものにだってできると思ったが、重喜劇演出に耐用可能な倍賞美津子を主演に据えながらこれではあまりにも勿体ない。
 ところで、以下は想像にすぎないが、井土紀州はこの作品で『白昼の通り魔』をやろうとしたのではないか。戦後民主主義の風が吹く農村を舞台にし、小学校の女教師が中心になっていることからして共通するが、ニセ札製造グループの中心人物で、最も人格者である段田安則演じる男の名前が戸浦文夫なのは、同じく『白昼の通り魔』で村のインテリを演じた戸浦六宏が想起されて仕方ないし、戸浦文夫という名にも戸浦六宏+創造社の中心人物だった渡辺文雄の名を合わせたのではないかと思えてしまう。それが実際か偶然かはどうでも良い。ただ、『田村孟 人とシナリオ』にも寄稿していた井土紀州が本作で『白昼の通り魔』の如き農村犯罪モノをやろうとしていたと思えば思うほど、完成した映画がそれらの意図とは無縁な場所で撮られていることが惜しくてたまらない。
 また、倍賞美津子が引き取って世話する精薄の男子が亀を連れているという設定に、『(秘)色情めす市場』で夢村四郎演じた鶏を連れて歩く芹明香の弟の姿を重ね合わせることもできるだろう。この設定を向井康介井土紀州のどちらが考え出したか、予想では『俺たちに明日はないッス』でATGやロマンポルノへの傾倒を語り、『(秘)色情めす市場』が好きな向井康介ではないかという気がする。ただ、映画本編では、この少年の存在が象徴として活かされていたとは言えないし、終盤の裁判所でのお札の紙飛行機もそこが映画自体が跳ね上がる映画的な瞬間でなければならないのに全くそうはなってない。
 そういえば不思議だったのは、不必要な箇所でカットが割られている箇所が散見できたことだ。1カットで持ちそうなシーンでも態々途中でカットが切り替わることが多く、別アングルでも押さえたから使っとこうという程度にしか思えなかったが。その延長なのか、終盤の裁判所でのお札は紙飛行機を検察官の席まで飛んでいくというショットでも何故かほとんど同ポジでカットが切り替わる。
 完成した作品とシナリオの最大の違いはラストだろう。裁判所と小学校のシーンの間がシナリオでは存在した。刑務所に罪には問われず今は水商売をしているみさ子が倍賞美津子に面会に行き、会話を交わすシーンがある。ここでの会話も重要だが、最も驚かされたその後のシーンを引用する。

81 大阪・アルサロ前
みさ子がけばけばしいネオンの下を通り
過ぎ、薄暗い裏手にやってくる。
従業員入口のドアを力なく開ける。ドア
の向こうは暗い。
その、漆黒の闇の中へ、重い足取りで
入っていくみさ子の後ろ姿


82 刑務所・かげ子の独房
看守が扉を開ける。
中から明るい日差しが差し込む。
かげ子、満ち足りた顔で、その明るい独
房の中へ、入っていく……。

 この後は、映画本編で見られた学校の図書館のシーンとなる。これらのシーンが何故外れたのかは分からないが、『シナリオ』誌に掲載されたシナリオがどの段階のシナリオかも不明なので、誰が何故外したのかも不明だが、少なくとも掲載(おそらく撮影前の決定稿だろうが)されているところを見ると、脚本家側は必要と思っているのではないか。実際、ラストにこれらのシーンがあると随分と印象が変わってくる。『絞死刑』でRが刑場の外に出ようとしたら強烈な光を浴びるシーンをも彷彿とさせる魅力的な対比があって、カットされたのが惜しまれる。まあ、監督は、兎に角暗くしたくないという方針だったようで、それはそれで見識だと思うが、料理のように口当たり良く、と思ったかどうかは知らないにしても、ゴツゴツと引っかかりのある映画に出来たと思われるだけに、魅力的な企画がこういう形で送りだされてしまったことが重ね重ね残念だ。
 木村祐一は国家への反発など持ったことはないということはよく分かった。
【参考】
■『白昼の通り魔』予告篇(予告篇監督/佐々木守

■『ニセ札』シナリオ掲載

シナリオ 2009年 06月号 [雑誌]

シナリオ 2009年 06月号 [雑誌]