映画 吉田喜重 変貌の倫理「鏡の女たち」

molmot2004-09-16

1)「鏡の女たち」 (ポレポレ東中野) ☆☆☆☆ 

2003年 日本 グルーヴコーポレーション・現代映画社・ルートピクチャーズ・グルーヴキネマ東京 カラー ビスタ 129分 
監督/吉田喜重  出演/岡田茉莉子 田中好子 一色紗英 室田日出男

 
 見逃していた吉田喜重の最新作だが、再来月にはNHK-BSでOAされるし、年末にはDVDが出るのだが、やはりフィルムで観ておこうと思い直し観に行った。
 素晴らしい傑作だ。感動と圧倒が押し寄せてきた。昨年の公開時に見逃したことが悔やまれてならない。昨年の日本映画は突出した作品がなく、個人的ベストテンには「六月の蛇」「アカルイミライ」といった佳作を日本映画のトップに据えなければならなかった。この作品を観ていれば、ダントツで1位だった。99年末の「御法度」以来、これでようやく松竹ヌーヴェルヴァ−グの三羽烏の新作が揃ったわけであるが、「梟の城」「スパイゾルゲ」といったこれ以上ないという凡作を撮った方は論外としても、大島、吉田はこれまでのフィルモグラフィーを汚すどころか、更なる秀作を作り出した。大島は「儀式」で、一つの終止符が打った感があり、以降の作品はどうしても作らなければならないという積極性を感じることはない。勿論それも映画監督の在り方としてアリだし、実際大島はそれに相応しい作品を製作するようになった。性表現の枠を破ることに主眼を置いたり、あるいは演出のみで勝負したり、または、デヴィット・ボウイや坂本龍一を起用したり、松田政男の言うように、ファッションの映画として表面を滑走することによって映画監督としてあらんとした。
 大島同様13年ぶりの劇映画となった吉田喜重は、変わるどころかATG時代を飛び越して、松竹との提携時代を思わせる魅惑的な傑作を作り出した。
 1998年夏頃、吉田喜重は新作「ペイル・ビュー 遠い夏」(カズオ・イシグロ原作の『女たちの遠い夏』の映画化)が実現しそうだということで、撮影を担当する予定だった映像京都の宮島正弘(「戒厳令」の撮影助手だった)も、嬉しそうにしていたが、クランクイン直前に中止となってしまった。それから5年を経て、低予算ながらも新作が完成したのは殊の他嬉しい。作品を観ればわかるように、これほどの力量の監督が何故撮りたい映画が撮れないのか。どうでも良い作品が何時の間にか流通しては消えて行っているというのに。
 まずは、現代劇であるということが嬉しい。今村昌平新藤兼人を除いて、この世代の方々は現代を舞台にすることがなくなってしまった。大島も篠田も現代日本に興味は持てないと言うし、上の世代の市川崑にしても時代劇が多くなった(現代を舞台にしても、「天河伝説殺人事件」やリメイク版「黒い十人の女」、未見だが「娘の結婚」にしても現代とは言い難い現代を舞台にしている)。深作欣ニですら「いつかギラギラする日」で若者像を笑われてから「バトルロワイアル」迄現代劇をやろうとしなかった。それは現代劇の旗手だった岡本喜八山田洋次にしても同様で、自身の現代性のズレを恐れて時代劇に逃避するのは仕方ないことなのかも知れないが、彼等が捉える現代の日本を観たいという気持ちは強い。
 この作品は、過去の吉田作品との共通項が挙げられることが多い。自分などATG時代の作品しか観ていないのに、それでも幾つかの共通項に気付かされた。開巻の岡田茉莉子の持つ傘は言わずもがな、田中好子が子供を連れ出して1,2時間遊ぶと家まで送ってやるというのは「炎と女」の小川真由美と全く同じであり、「炎と女」に拘るならば本作には北村和夫の子息である北村有起哉が出ている。女三人が「告白的女優論」、田中のマンションの前の道を歩く岡田を煽りで捉えた移動ショットが「戒厳令」の三國連太郎の同様のショットを想起させる。
 開巻のサスペンス溢れる門から出てきた岡田を追う黒い車の件には驚いた。13年ぶりの劇映画だというのに、吉田は短いショットを積み重ねてサスペンスを盛り上げる。しかもアングルが豊かなのである。バスの発車を捉えた二本の木立を左右対称に捉えたショットなど、老齢の監督特有の足が動かないから凡庸な場所で撮ってしまったり、ロケハンをあまりしていないことがわかってしまうような撮り方がなされているといったこと(「御法度」や最近の市川崑の作品にそれが顕著に感じられるのは、彼等がロケハンを徹底して行い、力のあるショットを積み重ねる監督だったからだ)が、本作には全くない。現代の東京を捉えたショットの数々は、吉田喜重の都市空間論として詳細に語られて良いものだが、元来、現在の建築物に多用されるような空間をロケハンしては半未来的空間として自作に登場させていただけに、現在の東京を撮ることに苦労はなかったのかも知れない。
 用意周到に施された演出は、観客側がつけこむ余地がなく、例えば―何故カフェでコーヒーを飲む岡田と田中は向かい合わずに隣り合って座るのか。続く食卓を囲むシーンで、何故岡田と一色は向かい合わずに隣り合って座るのか、という疑問を感じた瞬間、スクリーンの中で岡田は、夫が死んでも習慣で隣り合って座ってしまうわねと一色に語りかける。又、広島に向かう過程をわざわざ、飛行機の空撮、空港到着、バスでのホテル到着、フロントに向かい記帳、という一連の流れを、わざわざ馬鹿丁寧に凡庸な説明的ショットを積み重ねるのは何故なのか。神山征二郎じゃあるいし、吉田喜重の様なヒトが何故と思った瞬間、田中は、岡田の娘として記帳する。広島への距離感、そしてその距離の間に田中の心象の変化が生じ、岡田の娘として記帳しようと決心させる為の段取りとして、あの凡庸にも見える移動の過程があったわけかと納得させられた。
 この作品は死者を巡る物語で、岡田の周りには死者が多い。岡田の協力者の室田日出男は、この作品が遺作となったが、それだけに体は相当疲弊しきった感があり、舌もうまく回らない有様で実に痛々しい。それなりのハードさを求められる役だけに、さぞ辛い事だったろうと察するが、言葉は悪いが、まるで死者が岡田の手足となって田中に接近していくような感があった。それにしても痩せ細った室田は何と吉田喜重に似ているのだろう。
 田中が死者であるということは、あの生活感のない自室、表情のなさ、顔色の悪さ、黒を基調とした服を見てもわかる。だからこそ、ラストには消えてしまったのだが、これも観客がそう思った瞬間、岡田の口から『あの人は神様だったのよ』と、人間ではなかったことが肯定される。
 吉田喜重は自分の様なヤツに、この映画はああだこうだと言わずもがななことを言われることを完全に拒否し、全て明解にした上で完結させている。
 それにしても、一色紗英西岡徳馬ですら抑えた演技ができてしまう演出を施す吉田喜重の演出は素晴らしい。
 広島での長い岡田の原爆を巡る語りも、凡庸な再現映画より遥かに感動的だった。黒い雨のハナシを田中を隣にした席で語ったのは、吉田の今村昌平への意思表示と考えるのは馬鹿らしいだろうと思いつつも、この作品の素晴らしさは忘れ難い。