映画 「性輪廻 死にたい女」「ニワトリはハダシだ」

1)「性輪廻 死にたい女」[クレジットタイトル:死にたい女] (青山ブックセンター・カルチャーサロン) ☆★★★

1971年 日本 パートカラー シネマスコープ 若松プロダクション 72分 
監督/若松孝二   脚本/出口出足立正生 )  出演/島絵梨子  矢島宏 島たけし 香取環
 いくら前に座っている奴の座高が高く常時画面の1/4が遮られていようと、スタンダードサイズのスクリーンを繋ぎ合わせて、かろうじてシネスコを映写できるようにした状態だろうと、35mmを16mmに落としたものだろうと、1分程のロールチェンジ待ちがあろうと、「性輪廻 死にたい女」が観られるならば、それくらいの犠牲は何でもない。
 若松のフィルモグラフィーを参照するなら「続・愛のテクニック 愛の行為」と「秘花」の間に位置する作品で、前年の1970年には「日本暴行暗黒史」「新宿マッド」「性賊 セックスジャック」という若松の最高傑作級作品が並ぶ凄い時期だが、翌1971年に公開された作品は本作と「秘花」しか観ていないが、退潮ムードが漂い、映画としての魅力は欠ける。それは同年公開の足立正生監督作品 「噴出祈願 15歳の売春婦」(公開題「噴出祈願 15代の売春婦」。いくら映倫の干渉で意味不明のタイトルにされているとは言え、作品内のクレジットも15代なのだからそのまま表記すべきとは思う。これを拡大解釈すれば大島渚の意思と異なり松竹が勝手につけたからと「愛と希望の街」が原題の「鳩を売る少年」、あるいは大島が出した折衷案「愛と怒りの街」と公称されてしまうようになってしまう)でも感じたもので、学生運動の退潮期に重なるこの時期の若松作品の衰弱化は状況映画の難しさを示している。それは翌1972年の「天使の恍惚」でもそうで、凡庸な失敗作だった。
 「性輪廻 死にたい女」は、1970年11月25日に発生した三島由紀夫割腹事件をモチーフにしている。事件が起こった時、若松と足立は代官山のホテルで脚本を書くために篭っており、事件を見た二人は早速映画に取り入れ、事件の4日後には撮影を始め、12月には上映していたという。別資料では公開は1971年4月となっているが、ピンク映画の公開形態の特殊性を考えると、いつが初公開となるかは一概には言えない。何にしても、ピンク映画の即時性、若松作品の状況映画としての活動を示す象徴的エピソードであるが、劇中では主人公の男が盾の会の一員で、死に損ねたので無理心中を図るという形で描かれる。よくまあ盾の会から何も言われなかったと思うが。何せ開巻から全裸の女を寝かせ、褌に必勝鉢巻をした会のメンバーが上に乗り、立ち上がっては画面側に走りよってくるというイメージショットが繰り返される。
 映画としては凡庸なもので全く面白くないが、唯一感心したのは背景に配された雪が最新作の「完全なる飼育 赤い殺意」や「17歳の風景 少年は何を見たか」などより遥かに雪らしく描かれていたことだ。
 三島事件はこの時代に『死にたい』という想念を埋め込んだと後世の視点から勝手に考えているが、前述の「噴出祈願 15代の売春婦」にしても大島渚の「儀式」にしても、異様に死が纏わり付いている。
 「秘花」同様、恐らく足立正生の脚本に盛り込まれていたであろう政治要素を若松が全てカット整理してしまったことで、くだらないメロドラマにもなり得ない凡作になってしまった原因だと思われる。

2)「ニワトリはハダシだ」(イメージフォーラム) ☆☆☆★★

2004年 日本 カラー ビスタ シマフィルム/ビーワイルド/衛星劇場  114分 
監督/森崎東   脚本/近藤昭二 森崎東  出演/浜上竜也 肘井美佳 原田芳雄 倍賞美津子 加瀬亮 石橋蓮司

 本来こういった重厚喜劇が「男はつらいよ」と並行して存在しなければならなかったのに、松竹は山田洋次の喜劇のみを喜劇と断じたことから森崎東映画作家として苦難が始まるのだが、本作のような秀作を観ると、その思いはより強くなる。
 素晴らしい佳作だが、同時に忌み嫌いたい映画でもある。全編やたらと歌謡曲をがなりたてるような映画は大嫌いで、前半はほとほと苦痛だったし、タイトルの出方や音楽の品のない使い方にゲンナリしながらも観ていられたのは、映画的躍動に満ちた各人物の動きや、切返しの的確さ、移動の素晴らしさに息を呑むばかりだったからだが、今村昌平共々、こういった重厚喜劇は彼等の死と共になくなってしまうのかと思うと辛い。一時期の崔洋一に期待できたが、現在ではどうか。(続く)