TV「NONFIX #462 シリーズ憲法〜第9条・戦争放棄『忘却』」

molmot2005-05-03

1)「NONFIX #462 シリーズ憲法〜第9条・戦争放棄『忘却』」(フジテレビ)☆☆☆★★

2005年 日本 フジテレビ カラー スタンダード 
ディレクター・撮影・ナレーション/是枝裕和

 是枝裕和のドキュメンタリーは日本映画専門チャンネルで放送されたものを録画したが、未だ観ていないという怠慢ぶりで、そうこうしている内に同じく日本映画専門チャンネルで今月には早くも「誰も知らない」が放送されるし、それに関連して是枝裕和の関連作が一挙に放送される。
 だから、彼のドキュメンタリーは観たことがない。あ、河瀬直美との往復書簡は観たか。とは言え、何か言えるようなものではない。
 フジテレビ唯一の良心、「NONFIX」で憲法を特集するに当たり、是枝裕和森達也が動員されると聞いた時は興奮したが、案の定と言うべきか、第1条の天皇制を扱った、最も観たかった森達也の作品は中止となってしまったが(別の形で完成することを願う。中止についての詳細はココを参照)、是枝裕和の作品が無事に放送されたことは嬉しい。何せ最近のきな臭い世情を考えれば、こんな放送など簡単に飛ばされてしまう。とは言え、フジテレビの早々に目につかないように流してしまおうという意図も透けて見えてくるのだが。
 一ヶ月に渡ってシリーズで憲法を特集しているNONFIXだが、一応前2回分もながら視聴で観ているが、完全に観てはいないので後日記すことにする。
 第9条の戦争放棄をテーマにした是枝裕和の作品は、自己の幼少時の記憶からスタートする。練馬の自衛隊駐屯地で剣道を習っていたという少年時代を回想する是枝だが、無邪気に戦車などに乗れた楽しみを吐露する。ここで驚くのが、自衛隊=1954年発足=1954年キネマ旬報ベスト1作品=「二十四の瞳」=木下恵介という論理で、当時国民的支持を得た「二十四の瞳」が引用され、更にその「二十四の瞳」での木下を批判した大島渚の「体験的戦後映像論」が引用されるので、思わぬ飛躍に、個人的嬉しさがこみ上げて来たが、それは兎も角、大島が木下を批判する際に用いた『被害者的心情』とは何なのかが模索される。次に広島が―と、展開が読めたかと思いきや、再び私が介入し、唐突に『「ウルトラマン」が好きだった私』が語られる。「ウルトラマン」と言えば佐々木守が思い出され、妙に大島一家が顔を出す(この前のシーンで池袋で見かけた傷痍軍人に父親が国から恩給が出ている筈なのにと語ったと是枝は回想するが、これも大島渚が「忘れられた皇軍」で、恩給の出ない傷痍軍人である在日朝鮮人を描いたことと結び付けられるが、そのまま記憶としてしか語られないのは不満だ)なと思った側から実相寺昭雄の名著「怪獣な日々」が引用され、こうも個人的に好きなパーツをこれ見よがしに突きつけられたら、否応なく好きな作品と早くも言いそうになるのを堪えつつ、画面を見つめていたら、好きだったウルトラマンへの転機として映し出されるのが、あろうことか「帰ってきたウルトラマン」の伝説的なエピソードである「怪獣使いと少年」で、まあ、変化球の極みである「帰ってきたウルトラマン」を幼少時に見せられたら(因みに自分も初めて観たウルトラシリーズは6歳頃夕方に連日再放送されていた「帰ってきたウルトラマン」であり、何故観るようになったかと言えば団次郎と昔写真を撮ったことがあるという理由だけで母親に強制的に共に見せられたのが始まりである)不要なトラウマを抱え込むのは必至で、是枝は、自身の加害性を始めて意識したという。
 そこから、70年代を育つ自身の中には政治は無縁で、自分達の世代の政治や軍備への無関心の根拠として語っているが、この段階でこの作品は結論を下してしまい、後は「誰も知らない」が世界各国の映画祭に出品された折にドイツなり、台湾なりを見せる程度のもので、『私性』と『国家』が完全に遊離したまま平行線を辿って終盤に至る。『私』から見た『国家』とはこんなチャチなものなのか、などと思うのは60年代の、あまりに熱い『私』と『国家』を論じる映画作家達と是枝裕和を並べてしまうからだろうか。むしろ、無関心なヒトがここまで描いたことこそを評価すべきなのだろうか。それにしては詰め込みすぎで、もっとシンプルに『私と父』の関係性と『国家』を描いてほしかった。
 9条という誰もが知っていて誰も知らない憲法を描くのに『私』の視点が大きなウエイトを占めて、等身大に描き出そうとしているのは素晴らしいだけに、後半は疑問を感じた。しかし、現在においては重要な佳作である。