「RAMPO」を擁護した16の夏


 コチラで「RAMPO」へ好意的なことが書いてあって、我が意を得たりと思った。
 何せ「RAMPO」は公開時から嘲笑の対象でしかなく、今や語られることすらない。しかし、高校生だったあの頃、かなり夢中になって観た忘れがたい作品だ。元来江戸川乱歩好きだったこともあるし、重ねて角川映画的なイベント映画が好きだったので、「RAMPO」は正に好みな作品だった。その上「黛版」「奥山版」の同時公開、1年後には「インターナショナル・バージョン」が公開されるというのも物珍しく、自分のバージョン違い好きは、ここあたりが原点に思う。実際バージョン違いをこれほど大々的に売りにした作品も珍しい。
 「黛版」をミニシアターで観てから、続いてメジャー公開されている「奥山版」を観に行ったことを思い出す。パンフも全バージョン買ったが、特筆すべきは「インターナショナル・バージョン」のパンフで、千住明のサントラ付きで1500円だかした。流石に買うのに躊躇したが、ま、買っておいて良かったと思う。
 中古ビデオで3バージョン揃えたのは、もう6年以上前か。あの頃の中古ビデオだから、千円〜千五百円したと思う。その割にたいして観返していないが。

 そもそも「RAMPO」という作品は、元は奥山和由プロデュース、黛りんたろう監督、野沢尚脚本で進められていた企画だった。野沢尚は最終稿近くまで携わっているが、共同で書いていた黛りんたろうがホンを直しきれず、奥山と榎祐平が入ってきたので、実際に原稿用紙に文字を書いていないヒトと共同脚本でクレジットされるのは嫌だと野沢が言い、降板してクレジットから外すように要求した。その後、映像京都が母体となって京都でインし、完成したが、ラッシュを観た奥山が、当初の目論見と異なると判断してリテイクを要求するも、黛が応じず、奥山は自らリテイクすると発表した。これに黛は演出権の侵害だと告訴も辞さない態度に出たが、この頃から、奥山と黛というプロデューサーと監督の話し合いから、松竹とNHKエンタープライズという大きな組織同士の対立となって世間の注目を浴びた。結局、黛版はそのまま公開し、同時に奥山もリテイクして再編集した版を製作して、同時に公開するという、何とも日本的な折衷案が生まれた。
 リテイクと言っても、黛版のスタッフを使わず、東京で新たなスタッフを集めて追加撮影しているので、映像京都側のスタッフの怒りはケッコーなものだったと、「黛版」の色彩計測や撮影助手をした方々に聞いたことがある。又、黛版のスタッフに遠慮して参加を断ったヒトも多かったと聞くが、それはまあそうだろう。
 リテイク版には、深作欣二が自ら立候補して監督しようとしたらしいが、奥山が断っている。奥山は公開時に、深作に迷惑はかけられなかったとか、自身の問題だから自分で監督したとか語っていたが、単に深作に任せると予算も含めて超過が見えていたからだろう。しかし、晩年まで「怪人二十面相」の映画化を画策していた深作だけに、彼の手による「RAMPO」というのは、かなり観たかった。恐らく全く違う映画が生まれたのではないか。
 奥山が監督してリテイクされた分量というのは、実はそれほど多くない。根津権現やら、タレント、文化人を集めたパーティーシーン、その他構成上の転換点を派手にしている程度。例えばタクシー運転手を、マルセ太郎から大槻ケンジに変えたり(笑)。実質リテイクは40%程度で、後は黛版を再編集しまくって見世物性優先の作りにしている。

 この作品ほど映画制作の裏側が透けて見える作品も珍しい。「シベリア超特急」がイマジナリーラインを意図無く無視すると、どんなことになるかや、どういうショットを撮っておかないと編集が成立しないかを教えてくれる良くできた教科書であるように、「RAMPO 黛版」と「RAMPO 奥山版」は編集のタイミングやシーンの差し替え、構成を変えてしまうとどうなるかを教えてくれた。ま、こちらがそろそろ製作側に目が向き始めていた時期だったということもあるのだろう、黛版をバサバ切ってテンポを上げていく編集に興味を持った。そして「RAMPO インターナショナル・バージョン」では、音の差し替えによって受ける印象がどれくらい変わるかを教えてくれた。正に「RAMPO」3バージョンは、映画を学ぶ上で最高の教材である。それを全国の松竹系の映画館でかけてくれたのだから感謝しなければならない。「シベリア超特急」と「RAMPO」は全国の映像系学校の教材として、広く活用されているに違いないが、寡聞にして未だ実例を耳にしていない。せいぜい大阪芸大でホモのアメリカンポリスがシベ超3や5を上映して、その後、どの映画をパクったか得々と語っていると聞いたくらいだ。