映画 「寵姫ズムルン」「デセプション」「TAKESHIS'」

特集 ドイツ映画史縦断1919-1980
216)「寵姫ズムルン」〔SUMRUN〕(アテネ・フランセ文化センター) ☆☆☆★

1920年 ドイツ モノクロ スタンダード 52分
監督/エルンスト・ルビッチ    脚本/ハンス・クレリー エルンスト・ルビッチ    出演/パウル・ヴェゲナー イエニー・ハッスキルスト ポーラ・ネグリ アウド・エゲーデ=ニッセン

217)「デセプション」〔Anna Boleyn〕(アテネ・フランセ文化センター) ☆☆☆★★

1920年 ドイツ モノクロ スタンダード 90分
監督/エルンスト・ルビッチ    脚本/フレート・オルビング(ノルベルト・ファルク) ハンス・クレーリ    出演/エミール・ヤニングス ヘンニ・ポルテン パウル・ハルトマン ルートヴィヒ・ハルタ

218)「TAKESHIS'」(ユナイテッド・シネマとしまえん) ☆☆☆★★

2005年 日本 カラー ビスタ 107分
監督/北野武    脚本/北野武    出演/ビートたけし 京野ことみ 岸本加世子 大杉漣 寺島進  仁科貴
TAKESHIS' [DVD]
 本作を含む北野武の作品を好きな順に並べると、本作に対する自分の評価が分かり易いかと思う。以下上から並べると「ソナチネ」「キッズリターン」「3-4X10月」「あの夏、いちばん静かな海。」「その男、凶暴につき」「TAKESHIS'」「HANA-BI」「菊次郎の夏」「座頭市」「BROTHER」「みんな〜やってるか!」「Dolls」となる。
 ようは前期北野武を「キッズリターン」までとすると、後期の作品は全く好みではない。最大の不満は観客迎合の度が過ぎるからで、それがつまらない説明的な科白や描写になって出てくるのには我慢ができない。大体、普通のエンターテインメントに近づけば近づく程、緻密な脚本が無い状態で作っている限りは、『プロ』達の作る映画には決定的に及ばす、「座頭市」だって、確かに面白いし、殺陣など良いと思うが、作品としては山田洋次小泉堯史の作る時代劇の方が、遥かに丁寧に作られていると思ってしまう。北野作品の魅力は北野武にしか作ることが出来ない唯一無二の存在として、プライヴェート映画としての魅力が突出していた。一方で、それと普遍性の融合として「キッズリターン」という傑作があり、この方向に進むのなら良いと思えた。しかし、「HANA-BI」以降の作品がそういった方向に進んだとは言えない。
 それだけに、第12作目となる「TAKESHIS'」には何の期待もしていなかった。「HANA-BI」「菊次郎の夏」と、緩やかな下降を続けていた北野武は「BROTHER」で、とうとうかろうじて水準と言える程度の作品を作ってしまい、墜落飛行は遂に「Dolls」で地に突いてしまう。「座頭市」は浮力を無くしながらも延命術として、他から企画、キャラクターを持ってきて、目先を変えることで延命に成功させた。しかし、その次回作の様相が明らかになるに連れて、これは危なそうだという予感を強くした。「Dolls」で一度地に突いているだけに、傷口を広げるような作品になるのではないかと思った。実際自分は「BROTHER」で北野武の作品の質低下が極まったと感じ、期待することを止め、「Dolls」でもう見放した。「座頭市」は前述したような理由で、手放しでは復調とは思えなかった。従って依然見放した状態に近い形で観た「TAKESHIS'」だが、これが意外なことに面白かった。後期作品では突出している。「ソナチネ」には遥かに及ばないまでも「3-4X10月」の頃のテンションに近づいた作品ではないだろうか。黒澤明で言うと、「どですかでん」以降の後期黒澤の中で「乱」が唯一全盛期の黒澤作品に匹敵した状況と似ているかもしれない。何にしても、もう駄目だと思っていた北野武の予想外の復調に嬉しくなった。
 北野武が「フラクタル」という作品の企画があり、既に脚本も準備できていると語っていたのは「キッズリターン」公開時の「CUT」のインタビューだったか。出してくるのが面倒なので記憶で書くが、確か「ソナチネ」の後あたりに企画し、「みんな〜やってるか!」に続く作品、即ち事故後の復帰作として手掛けるにあたり「フラクタル」と「キッズリターン」が両天状態で、北野自身は「フラクタル」をやりたがったが、森昌行が反対し、「キッズリターン」となった。その点の森のプロデューサーとしての判断は確かに正しいと言えば正しい。「みんな〜やってるか!」という破綻した作品を作ってしまい、当然ながら興行的にも、又これまで高い評価を得ていたのが一気に落ちた(淀川長治は『広告批評』でのおすぎとの連載対談で、この作品のたけしのギャグセンスは凄い。斎藤寅二郎やチャップリンを研究したのかしらと語り、おすぎの冷ややかな返しを受けていた*1)為、実験度の高い「フラクタル」ではなく、うまくすれば興行的にも又評価も高く得られる可能性の高い「キッズリターン」を優先させるのは当然だろう。事実その通りにコトは運んでいるわけだが、「ソナチネ」のあの到達した演出で、「フラクタル」を撮れば、とんでもないものができるのではないかと思うほど、前述のインタビューで語られた「フラクタル」は魅力的だった。タクシーの運転手が道に飛び出してきた血まみれのヤクザから拳銃を預かるというシチュエーションが繰り返され、夢のまた夢という描写が続くと語っていた。しかし、このシチュエーションは既に「みんな〜やってるか!」で、血まみれの寺島進が拳銃を車に乗っているダンカンに渡すというシーンで描かれており、恐らく「ソナチネ」に続く作品として「みんな〜やってるか!」以前に作ろうとしたのかもしれない。
 今になって「フラクタル」が「TAKESHIS'」というタイトルで復活したのは、多分に「座頭市」の大ヒットの影響によるものらしい。以前の「フラクタル」の企画に、実際の北野武と虚構の北野の二人が登場するというアイディアが加味されて本作に至るわけだが、この武二人というのは明らかに2002年10月20日NHK-BS2で放送された「二人のTAKESHI」の影響が見て取れる。まあ、あの番組自体は今更珍しくもない二重写しというか合成を屋外や移動も使ってやるという技術的売り以外は極めてつまらない番組で、所詮は頭の固いNHK(昔教育テレビで松本コンチータが各地の温泉を飲む『温泉ゴックン!』のコーナーを潰しただけのことはある。確か予告等で映像を見て噴出した記憶がある)のクダラナイくせに金だけはかけた番組だったが、ここから本作のたけしが二人というネタが出てきたのだろう。
 観る前から、過去の作品の引用とか、現実の北野武が、とか聞く気がなくても聞こえてくるのである程度予想はしていたのだが、全く想像とは異なる作品だった。
 まず、本編に登場するビートたけし像だが、実際と比べてとかドキュメンタリーなどという言葉を持ち出してくる方がいて呆れるが、こんなものは「バトルロワイアル」におけるキタノタケシ同様、虚構のたけし像に過ぎず、映画に出てタレントをやっているという現実との共通項を持ち合わせているに過ぎない。もっと、現実の北野武を近づけるならハナからフィルムでは撮らずにDVでフェイクであっても、さも現実を切り取っているが如く作りこめば良いわけで、軍団や家族のネタを入れ込み、実際の番組収録をも取り込んでしまうなど、やりようによっては壮大な世界観を作ることもできるだろうが、そういったものを志向した作品ではないし、むしろそういった作品なら第三者が作った方が面白くできるし、実際そういった要素が加味された「ビートたけし殺人事件」並びに「ビートたけし殺人事件2」がある。
 役者志望の北野というのは、ドッペンゲンガー的存在であり、黒髪がビートたけしで金髪が北野であるという開巻で示される二分法は直ぐに打ち砕かれ、結局は北野武でしかない一人の男による可能性としての存在が役者志望の北野であり、そこから更に夢や妄想として錯綜していく。
 『夢』や『妄想』という記号は、「3-4X10月」や「みんな〜やってるか!」で主に描かれてきたが、『夢』の表現としては本作が一番良かった。夢の中での記号の連鎖が映像化されているのが素晴らしい。一つの記号が出てくると、夢の中では中心に留まり、そこを軸にして全てが展開するという約束事(他人は知らないが自分の見る夢の多くはそうだ)が映像として定着しているのが嬉しい。全てが交換可能な状態であり、本作における、ボタンが外せないという触感が、夢として様々なシチュエーションでリピートされたり、特定の顔が交換可能な状態で様々なキャラクターとして登場するのが正にそうで、夢を映像化するならこうなるだろうという形のもので、黒澤明の「夢」とは決定的に違う。
 岸本加世子は常に、妻や母のイメージを背負い、京野ことみは愛人としてのイメージが復唱される。その他、全ての人物が常時入れ替え可能な状態で出入りしている。
 過去の北野作品への目配せは、そう思った程感じなかった。露骨に直接過去の映像が出てきたりするのかと思ったが。「灼熱」のポスターへの目配せは笑えたが、スタジオの沖縄のセットは正に「ソナチネ」の1シーンのセルフパロディであり、タクシーに大人数乗ったりポルシェには「みんな〜やってるか!」、銀行強盗は同じく「みんな〜やってるか!」「HANA-BI」が即座に連想される。
 思いつくままにその他挙げていくと、美輪明宏の唄は「Dolls」の深田恭子、ライブハウスでの客席に座るたけしが発砲するのは北野井子の「Begin」のPVから、タクシーは「キッズリターン」、女形少年は「座頭市」、オーディションは「みんな〜やってるか!」、そして砂浜で遊ぶ姿や佇む二人には「ソナチネ」「HANA-BI」「BROTHER」が即座に連想されたりと、もう挙げていけばきりがない。作品の全体像は「3-4X10月」「みんな〜やってるか!」に酷似しており、この2作はたけしの主演作ではないので、自身の主演で「みんな〜やってるか!」の失敗を挽回しようとしたと考えても良い。
 北野武は「ソナチネ」の頃から集大成とか次からは新しいスタイル云々と言っていて、毎回言っているので、流石に「ソナチネ」「HANA-BI」「BROTHER」と同じスタイルの作品を撮る度に集大成と言っているのを聞くと何度集大成があるのかと思うし、毎回次からは違うステージとか言われても困るという思いがあったが、本作は「みんな〜やってるか!」で失敗していた自作の解体に成功しており、これが遺作になるのではないかという気分にまでなった。
 あの不必要なまでに撃ちまくっている姿に、かつて「その男、凶暴につき」「3-4X10月」「ソナチネ」で、日本でもモデルガンであってもここまでの迫力を出せるということや、拳銃の撮り方を教えてくれた北野武はどうしたという声が多いようだが、これは所謂世間からドンパチだけとか、カッコつけて撃ちまくっているだけの映画という声への自虐的なパロディで敢えてやっていると考えるべきではないか。それだけに最も好きと思われるお得意の砂浜に佇むシーンで、隣の女はどこかへ行ってしまうわ、機動隊やヤクザ全共闘が襲い掛かってきて、撃たれながらも機関銃で全員殺していくといった、これまでの自作の象徴を解体してしまう。
 死体の散乱している中をタクシーが避けながら走っていくシーンや、武を待つファンなど実に良い。
 幾つか不満もある。美輪明宏が全く不要だとか、「ヨイトマケの唄」もいらない。タップも邪魔。どうも「HANA-BI」以降は絵に凝っているからと本編に入れたり、入れたいから入れるという強引さが災いして邪魔な異物にしかなっていない。それからどうも「菊次郎の夏」以降あたりからやり始めた長めのOLに顔などをWらせるのは安っぽいので好きではない。銃撃戦から星座とかもあまりにも意図が透けすぎて嫌。編集へ依存しすぎているとか、自己解体な作品なのだから「Dolls」で訣別した久石譲を復帰させるべきだったといった思いもある。
 ゾマホンのギャグは不発だが、照明の効果音が良いのと、タクシーと交差する光というのは良いし、「みんな〜やってるか!」的な不発のギャグ集だったらどうしようかと思ったが、杞憂に終わった。
 ラストにかけて、トイレのシーンでカットがかかってクランクアップで花束に拍手という展開が「シベリア超特急」を思わせ、このまま終わらないのではないかという不安感と安っぽさに包まれ、それに続くスタジオに一人居るたけしをカメラが円を描いて捉え始めると、エヴァの最終話みたいな方向に行くんじゃないかとか不安に思ったが、そうはならなかったので良かったが、以降のカットが説明的帳尻合わせなカットが続き、もっと突き放してしまって良かったと思う。
 とは言え、久々に北野武が観客を無視して好き勝手に作った感があり、そうなると途端に魅力が甦ったのは嬉しい。別に海外の映画祭の受賞と作品の完成度は関係ないし、観る側にも関係ないことだが、「HANA-BI」以降、映画祭の受けを常時一番に考えて作っているようなところがあり、それが悪いとは言わないにしても、作品にプラスになっているとは思えず、むしろ質低下を招いていた。北野武の最も凄い時期の作品は、ま、「ソナチネ」や「キッズリターン」はカンヌである程度の注目は浴びていたが、大騒ぎな展開にはなっていなかったのだから、所詮その程度の映画祭であり、むしろ評判が悪かったという本作が実際には遥かに素晴らしい佳作であったことを考えると、今後も映画祭の評判や不要な観客への媚を考えず好き勝手に北野武にしか撮れない作品を撮って欲しい。
 毎回新作公開時には次回作の情報を相当漏らす北野武だが、次回作は団塊の世代の子供時代を描く作品になるとのことで、期待して待ちたい。

*1:『おしゃべりな映画館3』参照