映画(TV/VIDEO/LD/DVD)「Dolls」「座頭市」

70)「Dolls[ドールズ]」(VIDEO) ☆★★★

1995年 日本 バンダイビジュアル TOKYO FM テレビ東京 オフィス北野 カラー ビスタ 113分  
監督/北野武    脚本/北野武    出演/菅野美穂 西島秀俊 三橋達也 松原智恵子 深田恭子
Dolls [ドールズ] [DVD]
 北野武第10作にして最低の愚作。
 「BROTHER」で見せた大きな質の低下が、より拡大して無残な状況を見せてしまい、遂には「みんな〜やってるか!」を越える出来になってしまった。
 再見するのがこんなに苦痛だった作品はない。

71)「座頭市」(DVD) ☆☆☆★

1995年 日本 バンダイビュジュアル TOKYO FM 電通 テレビ朝日 齋藤エンターテインメント オフィス北野 カラー ビスタ 116分  
監督/北野武    脚本/北野武    出演/ビートたけし 浅野忠信 大楠道代 夏川結衣 ガダルカナル・タカ 大家由祐子
座頭市 <北野武監督作品> [DVD]
 公開時に印象をメモしたテキストが出てきたので、ペイストすておく。再見の印象も変わらず。

 北野武の新作が、さほど期待できない存在になってしまったのはいつからだったか。
「みんな〜やってるか」(1995)を別格にすれば、「HANA-BI」(1998)を観た際に初めて違和を感じ、「菊次郎の夏」(1999)で同時代の日本映画に比べればまだ評価できると思いつつも、質の低下と大衆迎合が過ぎることを苦々しく思い始め、「BROTHER」(2001)で、「ソナチネ」(1993)、「HANA-BI」と同じことを大衆的に俗化させて繰り返していることに驚き、この凡作が、と床を蹴った。そして「Dolls」(2002)で遂にゴミとしか言い様のない、「みんな〜やってるか」以上の愚作を作り出してしまった。しかもこちらは、極めて真面目に作ってこんなものになってしまったのだから、かつて「ソナチネ」を筆頭に「キッズ・リターン」(1996)、「あの夏、いちばん静かな海」(1991)、「3-4×10月」(1990)、「その男、凶暴につき」(1989)といった世界映画史に残る傑作を作り出していた北野武はどこへ行ってしまったのか、と泣きたい気持ちになった。
 聡明で自己批評に長けた北野武が、自身の映画作家としての能力低下に気付いていないはずはない。ならば、何も毎年新作を作る必要などないと思うのだが、今回「座頭市」を自身の監督主演でリメイクすると聞いて、なるほどと唸った。よもや、自身の能力低下を悟った北野武は「その男、凶暴につき」以来となる依頼企画、更には原作モノ、リメイク作品というこれまでのフィルモグラフィーからは意外な方向に向かう。それも「座頭市」だ。しかし、北野武座頭市の関連は意外なものではない。何せ「みんな〜やってるか」にはダンカン演じる座頭市が時代劇セットの中で登場しているのだし、雑誌「コマネチ!」のダンカンの証言によれば、勝新太郎と、たけしが対談した後、「お笑い座頭市」を作る、それも勝主演、たけし監督で、という到底信じられない企画があったという。信じられない企画だけに実現していないのだが、ダンカンが脚本を書くように指示され、書き上げてたけしの元へ持っていったところ、開口一番「あれ、やめた」で終わったという。何故か、今回のリメイクに際して、この「お笑い座頭市」にまつわるエピソードが語られることはない。この時の企画が後に「みんな〜やってるか」のエピソードの一つとして使われていると思われる。
 「座頭市」リメイクに関しては、1998年頃から三池崇の監督で役所広司、またはビートたけし主演で製作されるという噂が広まっていた。ところが、ある時から話が聞こえなくなったと思ったら、一転北野武の監督主演作として発表された。北野側が勝のイメージが強すぎるので出演に難色を示し、監督も兼ねれられるなら、との意向を示したためと言われているが、「座頭市」リメイクにやる気を出していた三池の落胆ぶりはいかばかりであったろう。(と、言いつつも三池の新作「IZO」に、たけしも出演する)
 北野武としては行き詰まった映画作りの気分転換として、引き受けたのではないか。又1992年頃企画したものの頓挫した「豊臣秀吉」への思い、即ち時代劇を作りたいという思いの実現、更には座頭市というネームバリューを元にたけしが演じるとなると、かなりの観客動員が見込まれることから、北野武が本来作りたかった時代劇への布石としてこれほど相応しいものはない。
 公開前の絶好のタイミングでヴェネチア映画祭で監督賞を受賞したこともあり、かなりのヒットとなっている。あの北野武の作品がこれほどのヒットを見せるとは全くの意外だが、事故後の北野武、即ち「キッズ・リターン」以降ということになるが、観客を動員できる映画作りを基盤に考えてきたと思う。「菊次郎の夏」以降は全国松竹系での公開となり、大衆的なヤクザ映画や、海外映画祭を意識した芸術映画モドキに名前の通った俳優やアイドルを起用するなど、およそこれまでの北野作品では考えられなかったような事態となっている。それらが北野武の進化として肯定的に受け入れられれば良いのだが、明らかに後退し俗物化した映画にしか思えない。
 さて北野武版「座頭市」である。開巻は、佇むたけしの姿にズバッと大きな青字で座頭市とタイトルが被りフェードアウトする。直ぐにフェードインし、佇むたけしの元へ歩いてくるヤクザ者たちの姿と順調にカットが繋がっていくが、今回の作品ではフェードアウトの長さに比してフェードインがほとんどカットインに近いぐらい短い。つまり余韻と次のカット、シークエンスへの繋がりを断ち切るような作りになっている。
 時代劇と言ったところで、座頭市は所詮いつものヤクザ映画の時のたけしが拳銃を仕込刀に変えただけで、やくざの描写も、そのまま時代劇にスライドさせただけにすぎない。しかし、ここが北野武という監督の巧いところで、今回も相変わらず暴力ヤクザのハナシなのだが、時代劇、座頭市という記号、表層的描写を変えるだけで新鮮に映るようにしている。それにしても、この作品の殺陣には唸る。たけしの圧倒的な速さの太刀捌きと、斬られる、という行為の痛みが伝わってくる。前々から勝新亡き後、座頭市を演じられるのは、たけししか居ないと思っていたが、流石の存在感である。ただし、髪を金髪にしたり、最近の北野映画の最大の欠点であるのだが、つまらない科白を喋ったりするのが興醒めで、かつての初期作品の如く、寡黙で貫き通して欲しかった。
 世間的には随分と好評な本作だが、愚作「Dolls」よりはマシと言えども、時代劇、座頭市という目新しさで、多少興味は持てるとは言え、北野武の作品としては未だ復調とは言えないと思う。そもそも、「HANA-BI」以降の作品全てに対して言える、観客への媚が気になる。彼の作品の魅力は彼以外の誰にも撮れない映画であり、他人が表層的に真似たところで底の浅さを露呈してしまう、正に唯一無二の映画を作れる監督だったからだ。とは言え、広く世間一般に受け入れられる作りはしていなかった。「キッズ・リターン」が単館系ながらヒットした時、地味ながら元来の北野映画と一般的映画の要素を、北野自身の演出力によってうまく融合を果たしていたので感心した。こういった方向でなら、幅広い観客に受け入れられるだろうとも思った。「HANA-BI」は、その方法論で作られた「ソナチネ」である。ところが、この作品から一般の観客を意識した説明的すぎる科白や描写が入ってきてしまった。それが巧ければ良い。しかし、特異な北野武でしか描けない描写は良くとも、一般的な映画の定石なシークエンス、科白となると、所詮北野武は素人である。プロの映画監督や脚本家の方が巧いに決まっている。そういった弱点を晒してしまうようなシークエンスが入ってくるようになったのは、「HANA-BI」以降である。本来ならば、「HANA-BI」が単館でそこそこのヒットで終わっていれば、反省点も見えた筈なのだが、運悪くとうか、運良くというか、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を受賞してしまい、作品は拡大公開され、遅れて来た絶賛評が包んでしまい、北野武の方向性を誤らせた。それは続く「菊次郎の夏」にわかりやすく現れている。「母を訪ねて三千里」的なオーソドックスなロードムービーを作るのは良いが、一般の観客を意識したせいで、本来の北野映画のリズムを狂わせる下手な描写が、かなりの比重で入ってきた。こうなってくると、プロの映画監督が撮った方が上である。北野武も「BROTHER」を経て焦り始めたのだろう。再び海外の賞を意識しすぎた他人の真似できない自身の世界観を主体とした芸術映画を作る。「あの夏、いちばん静かな海」のカップルを抜き出したかのような二人に文楽を着せた駄作「Dolls」だ。この作品も、かつての北野武なら緊張感の弛緩しない厳しい恋愛映画に仕上げられたかもしれない。しかし、映画作家として行き詰まったからと言って、ならば娯楽映画「座頭市」だと言う程甘いものではない。ところが、「座頭市」で驚いたのは、緻密なカット割、切り返し、アップなどが的確に捉えられており、所謂娯楽映画としての基礎的な画作りを外していないのだ。流石に11本の監督作があるだけあって、プロとしての技術が身についている。これまでのロングショットの多用や横歩きといった北野映画における記号は姿を消し、アクションシーンにおける見せ場等、実に的確なカット割で見せてしまう。とは言え、前述したように殺陣における本作の突出ぶりは、久々に絶賛したくなったが、それ以外のシークエンスは極めて定石的描写である。博打狂いの男、親切に世話を焼くバアサン、親の仇を討つべく芸者姿で旅を続ける姉弟。病身の妻と仕官すべく旅する浪人。宿場町を牛耳ろうとする黒幕。時代劇における定番中の定番を、北野武は愚直にまるで商業映画の監督のように撮ろうとする。出演者も「その男、凶暴につき」以来となる岸辺一徳や、初参加ながら北野映画と空気感を同期させる柄本明、TVでの共演の記憶が蘇りつつ、脇役として確固たる地位を固めつつある石倉三郎鈴木清順阪本順治の世界に入れるのだから当然融合可能な大楠道代、そしていつかは出るだろうと思っていた浅野忠信など、名はありつつも性格俳優の側面が強い人たちが参加しているだけあって「Dolls」の様なことにはならず、むしろこの作品に相応しい北野武の世界観を理解できているキャストだと言える。
 この、時代劇の定番を外さなかったのは、多くの観客に受けいれられる為の処置なのだろうし、実際ハナシの流れや黒幕の意外性など巧いもので、北野武にあるまじきストーリーの転がし方である。しかし、やはりそこまで商業作品に近づいてくると、「雨あがる」(1999)や「たそがれ清兵衛」(2002)の方が遥かにプロの技術を結集して作られた時代劇だと思う。所詮脚本を軽視した芸術映画内でしか成立しないやり方で映画を作ってきた人が、娯楽映画に向かうことには首を傾げる。実際、今回の作品で北野武がやりたかったのは殺陣とタップだけであり、後は映画として成立させるために撮らざるをえないので撮った、というような感じがしてならない。勿論、11本も撮っている今や「プロ」の映画監督だから、そのようなシーンでも手を抜いているようには見えず、ちゃんとカットを割ってあるし、動きも巧みにつけている。かつてなら、沖縄と時間潰しするヤクザ、というキーワードだけで「ソナチネ」という大傑作を撮った様に、ひたすら寡黙に斬るだけの座頭市を作ったであろうし、今回も本来はそういった作品にしたかったろうと思う。それほど、殺陣のシークエンスの素晴らしさは際立っており、それに比して時代劇のパターンを踏襲したシークエンスは、職人的技術で処理しているにすぎない。タップについては賞賛の声が多いが、違和感があったのみ。田んぼで踏み鳴らしながらそれがタップのリズムとなり、雨の水滴が地面を跳ね、やがてラストの村祭りでのタップという流れは悪くない構想だが、どうにもテンポが盛り上がっていかないように思えた。これは、今回久石譲に代わって登板した鈴木慶一が映画音楽に不慣れなのも一因か。ガタルカナル・タカを狂言廻しにしたお笑いシーンも全て不発。「みんな〜やってるか!」と同じ失敗を繰り返している。これぐらいベタだと年寄りには受けるようだが、こちらは観ていて辛い。「3-4×10月」や「ソナチネ」の頃のちょっとしたユーモアの出し方の方が遥かに洗練され面白かった。
 ラストに到って、盲がウソであるとか目が開いてしまう勝新座頭市を解体してしまうのには驚いたが、これは良い。
 全体としては、たけしと浅野の声が高すぎて緊張感が出ないとか、黒澤の後継者だと、とうとう自称し始めた割には画の重厚感に欠けるとか、不満点は多いのだが、たけしの座頭市と殺陣の素晴らしさで評点は上げておいた。頼まれ仕事、気分転換の観客サービスと考えれば、悪くないと思う。むしろ、次回作で北野武はどの方向に向かうのかが気になる。もし「座頭市2」を作るなら、「ソナチネ」の如きストイックな座頭市が観れたら、さぞかし面白いだろうと、あの殺陣を思い返しながら想像してしまう。「Dolls」で見放しかけた北野武の延命治療は、今回の興行的成功で確実なものになった。後は次の作品にかかっている。何者も気にしない自分の作りたい映画を作って欲しいと思う。