セミナー 「セルフドキュメンタリーの今を考える」

「第129回メディア・セミナー 「セルフドキュメンタリーの今を考える」講師:松江哲明武蔵大学8号館5階8504教室)

 家から割合近かったので行ってみる。目的は「カレーライスの女たち」をもう一度観たかったのと、ドキュメンタリーなりセルフドキュメンタリーなりを、一部を除く偉そうな評論家オッサンのハナシで聞かされるのは嫌いなので、同世代で作品に好感を持っている監督のハナシを聞いた方が退屈せずに聞けるだろうという判断。4時間という長さも良さげだった。
 結果から言えば、予想以上に面白かった。上映された作品中初見なのは「グッバイメロディー」と「かえるのうた 予告編ロングバージョン」の2本だが、これらの作品にも刺激を受けたが、各作品についての解説が興味深かった。又、聴講者のリアクションや質問が、映画向けのヒトとは違っているので、意外だったり感心したりした。
 「カレーライスの女たち」を、これはドキュメンタリーではないという声があったのが意外で、やはりドキュメンタリーは劇映画以上に何故かジャンル規定を厳密にしてしまうヒトが多いのだと感じた。これは以前から、ドキュメンタリー全般に渡って特定の作品を、これはドキュメンタリーではないとか決め付けるヒト、それもそうドキュメンタリーを観ているわけでもないヒトが平気で言う事例を幾つか見て来ても思ったことだが、何故そこまではっきり言えるのだろうと思う。劇映画には、せいぜい映画的だとかテレビ的といった曖昧さに依拠して分ける場合もあるが、これは映画ではないと言おうと思ったら、それに答えるだけの映画の規定を構築しなければならないし、それなりに作品を観ておかないと言えないと思う。ところが、ドキュメンタリーは、これはドキュメンタリーではないとか、演出やヤラセに関しても誰でもが厳密な定義をしがちだ。自分などは、とても規定するだけの知識を持ち合わせていないし、規定してしまうと自分の規定外の作品が眼前に来た場合、特定の箇所からは全てシャットアウトしてしまう恐れがあると思っている。何せ知り合いには、真面目な顔して『原一男平野勝之松江哲明の作るものは娯楽性が強すぎるのでドキュメンタリーではない』などと平気で口にするヒトも居て、深刻な問題や社会問題を訴えるのがドキュメンタリーだ、などと言われて、こっちは誰がそんなこと決めたんやと呟くしかないのだが、そういった言説が罷り通るのは何故かという思いがある。
 とは言え、今回の聴講者の中から音声が聞き取りにくい、何故音声スタッフ入れないのかとか、あおりで撮ってるから被写体の頬が、とか撮り方が素人臭いとか、普段の映画館なり上映会なら暗黙の了解事項となっている事を態々聞くヒトも居たが、そういった視点というのも普段は忘れているが大事だとは思った。ENGでなければならないなどと言われてしまえばそれまでなのだが、DV以降のドキュメンタリーの存在を、作り手と一部の支持する観客だけで盛り上がるだけではなく、一度引いた視点から考えるのも有効だとは思った。