映画 「男たちの大和 YAMATO」「SAYURI」

molmot2006-01-23

12)「男たちの大和 YAMATO」(Tジョイ大泉) ☆☆☆

2005年 日本 東映京都 「男たちの大和/YAMATO」製作委員会 カラー シネスコ 145分
監督/佐藤純彌    脚本/佐藤純彌    出演/反町隆史 中村獅童 渡哲也 鈴木京香 仲代達矢

 角川春樹の復活と共に浮かび上がってきた大和だが、以前にも書いたように、元々東映が映画化を企画していて、しかし製作費が嵩む為に頓挫しかけていたら春樹が娑婆に出てきたので一気に実現に動いた、ということらしい。従って、この作品が旧角川映画とは些か趣きを異にするのは、企画が東映から出てきたからと言える。要は古めかしい映画会社的な企画臭が漂うように感じる。
 しかし、監督指名は春樹が行ったらしく、実に「野生の証明」以来27年ぶりに佐藤純彌とのコンビが復活したことになる。以前にも自分は、この企画はむしろ澤井信一郎向きだと言っていたが、流石春樹と言うか、先ごろ発表になった春樹復活第二弾「蒼き狼〜地果て海尽きるまで〜」の監督は澤井信一郎に決まった。コチラの方が往年の角川映画っぽい。
 それにしても、ベテラン監督を起用していることが頼もしい。何せここ数年、特に近年その傾向は加速するばからだが、若手監督を安易に大作やメジャーに起用し過ぎる。才ある若手を起用するなら良いが、商品として成立していないものが多すぎる。行定勲が唯一安定株だが(「北の零年」という失敗作があるが、脚本も悪く、篠田昇の死去でカメラマンの交代により画も良くなかった)、昨年を見ても「忍 SHINOBI」「NANA−ナナ」「ALWAYS 三丁目の夕日」「同じ月を見ている」「戦国自衛隊1549」「容疑者 室井慎次」といった作品は、最低限メジャーで商品として観客の眼前に出すものとしては欠けているものが多過ぎる。本来中堅と言うか既にベテランの域にある森田芳光大森一樹金子修介滝田洋二郎あたりが、これぞメジャーの商品という見本を見せるべきなのだが、「阿修羅城の瞳」や「あずみ2」といったツボを外した作品を見せられると、そうとも言えないのかという気分になってくる。
 だからと言って、やっぱり佐藤純彌とはとても言えないのは、ウパー以前のここ30年程の大作専門監督になってしまって以降でも、全て観ているわけではないので絶対的なことは言えないにしても、職人技術の切り売り以上のものは観た記憶がなく、小規模、中規模の作品こそ佐藤純彌に相応しいと思い続けていただけに、「男たちの大和 YAMATO」の監督に決まっても、素直には喜べなかった。それでも、その『職人技術の切り売り』ですら最近の若手に任せた大作はできていないのだから、その点で期待を抱かせた。そういう意味で、角川春樹はプロデューサーとしての品質管理に責任を持っている稀有なプロデューサーであり、安直に大作に若手を起用しない姿勢は絶対的に正しい。それはもう角川映画第一作「犬神家の一族」を市川崑に任せたくらいのヒトだから、アイドル映画にはどんどん若手を起用しつつ、大作は佐藤なり深作欣二といったベテランしか信用していなかったということからも伺える。後年「天と地と」などを自身で監督してしまった辺りから自滅が進んだわけであるが。
 この作品に関しては、観終わってから「月刊シナリオ1月号」に載った野崎龍雄・井上淳一郎版の脚本を読んだが、比較してどうこう言う気は更々無い。大体、掲載されているのは検討稿であり、それを巡るトラブルと脚本家軽視の問題は当然東映側に責任がある(角川春樹はライターへの礼節を弁えていると逮捕直後の映芸座談会で口々に荒井晴彦桂千穂が言っていたので今回の対応は意外だ)が、読めばわかるように本編とは『酷似』したものではなく、部分的に共通した描写も多いが、かなり異なるものだ。撮影に使用した決定稿はまた別にある筈なので、全く別のモノとして考えるべきで、検討稿と完成した映画を比較しての批判は意味を成さない。ハナシが反れるが、年鑑代表シナリオに「スリ」が掲載された時、それまで雑誌等に掲載されたこともない準備稿が載っていたのには呆れた。決定稿ではなく、準備稿の描写に優れた箇所があったらしいが、それを言い出せばキリがないし、あくまでこれで撮影に入ると印刷した決定稿、つまりは各スタッフ、キャストがそれを元に映画を作り上げて行った稿こそが審査対象になると思ったのだが。
 一見して感じるのは、オーソドックスな戦争映画をオーソドックスに描き切り、安心して観ることができたということで、前述した作品や「リターナー」「あずみ」「CASSHERN」「ドラゴン・ヘッド」「NIN×NIN 忍者ハットリくん THE MOVIE」などを観ている最中の当たり前だった商品としての最低限の約束事が平然と破られていく様や、「君を忘れない」や「ローレライ」の描写もあれで良いんだで通ってしまうといった、既に撮影所システムが機能しなくなってきた現状の中で、東映京都撮影所の機能性が十分活用され、佐藤純彌も基本を外すことなく熟練の手腕で見せきっていて、当たり前のことに妙に喜んでしまう。大体、役者が細身で坊主頭なだけで安心して喜んでしまう。特攻隊や海軍は丸刈りでなくても良いのは承知しているが、いくらなんでも髪型は当時に倣うべきだろとイライラしながら観たり、幼稚な科白が平気で紛れ込んでくる戦争映画もどきにつき合わされてきた身としては、当たり前のことが当たり前になされているだけで嬉しくなる。
 中村獅童は、以前から演技者として好きだったし、この世代の中では演技の安定度は際立っている。又、日本兵を外観からして、演じることのできる数少ない一人だと思うが、群像劇の中で、主張しすぎない存在感で良かった。
 期待していなかった反町隆史も、そういった中の一人としては良かった。
 大和のセット建設は、「ローレライ」のようなチープなブルーバックを平気でやってのける時流への当然の反発として支持したいし、幾つかのシーンにおいては有効に活用していたが、海面が入り込むショットになると合成しているらしく、それでも良いのだが人物の縁が抜け切れていなかったり、ロングに配された人物、又はアップの際、その縁が綺麗に抜けていないのが気になる。本作ではバリカムを使用しているが、ブルーバック使用時にフィルムとの抜けの差がどの程度のものなのだろうか。
 阪本善尚が撮影しているので期待したが、大和の巨大感が欠けるのは極力再現した箇所のみで見せきることに主眼が置いてあるためか。その辺りは「Always 三丁目の夕日」の様な一部をセットで作り、他の部分をミニチュア、CGを併用して再現するという形をもう少し使っても良かったように思う。
 しかし、戦争映画的戦争映画と言うべきか、戦争映画内戦争映画と言うべきか、いかにも戦争映画的描写が口当たり良く流れていくので、飽きずに見入ることができるし、ラストに長渕の分かりやすい主題歌が流れると、大作感、イベント映画感を堪能できて嬉しくなったが、それ以上のものを感じることはなかった。最近の日本映画はマトモな戦争映画すら作れなくなっていたが、これはマトモだ、という程度で評価してしまう気はなく、水準値の戦争映画という印象だ。
 前述した野崎稿との大きな違いは現代パートが顕著で、「タイタニック」を露骨に意識した沈没船と生存者という枠組みは、タイタニックと大和を同一視することができないだけに安易な作りにしか見えず、又、鈴木京香が年齢的には本来もっと年上でないと成立しないので、開巻当初は、突如愛国心に燃えた愛国OLが大和沈没箇所に気まぐれで行くハナシかと思いきや、養女という設定で何とか納得したものの、鈴木京香は淡々とした作品に出ていれば良いものを「戦国自衛隊1549」とかハナから向いていない作品にも何故か参加したりするので、本作にしても、佐藤純彌の現代パートの扱いの悪さにも起因するが、鈴木京香が出てくる度に非常に温度が下がる。
 群像劇としては、適度に配されたエピソード、それも戦争映画的戦争映画なエピソードの羅列なので、ぼんやり眺めているしかないが、蒼井優の箇所は光っていた。寺島しのぶ東映京都で泣き要員で動員されているところなど、ある種の映画史性を感じ取れて悪くないし、賭場シーンなどいかにも東映らしくて苦笑いしそうになるが、アップが多い割には、阪本善尚なのに魅力に欠けることが多く、殊にスタジオになると、アップが映えないのは、バリカムだからか?
 天皇に踏み込んだ科白など、これも野崎稿には無かったが非常に良かった。一方で、靖国への言及がないとか、天皇に対して畏れ多過ぎると怒るライトで妙なヒトも居るので笑ってしまうが、しかし一理あるのは、徹底した愛国史観に満ちたプロパガンダ映画も作って欲しいと思う。「プライド」にしてもそこが中途半端で、徹底的にやれば見えてくるものと、そこに付随している人々の覚悟が伺えるのだが。
 クライマックスとなる大和の最後を、「プライヴェート・ライアン」的シャッター開角度を変えた描写で見せていることに関しては、佐藤純彌と言うよりも、二班監督の原田徹の積極的意思が伺えるのは同じく二班監督を務めた「バトル・ロワイアルⅡ」での同様の描写があったからで、自分は原田徹の監督作でも伺える過剰感が嫌いなので、苦々しい思いで観ていた。大体、本作におけるライアン症候群の最大の欠点は、一つのショットの中で、何を見せ、どういうアクションが展開しているかという、「プライヴェート・ライアン」で当然のこととして描かれていたことが、表層的な映像効果にしか捉えられていないことで、その結果、目くらまし的な短いショットの繋ぎでアクションのようなものを形成している錯覚を起こしているだけにすぎない。大量の血を出す過剰感や意図すべきものの断片は伝わり、それなりに日本の戦争映画の中では見応えがあるものの、惜しいと思う。
 戦争映画は、撮影所システムの中で最低この程度のレヴェルは維持すべきとは思うが、それ以上の面白さは感じなかった。

13)「SAYURI」〔Memoirs of a Geisha〕(Tジョイ大泉) ☆☆☆★

2005年 アメリカ  Columbia Pictures カラー シネスコ 146分
監督/ロブ・マーシャル    脚本/ロン・バス アキヴァ・ゴールズマン ロビン・スウィコード ダグ・ライト    出演/チャン・ツィイー 渡辺謙 ミシェル・ヨー 役所広司 工藤夕貴 コン・リー 桃井かおり

 原作は読んでいないのだが、黒澤明が死去する直前にスピルバーグが自ら監督して映画化すると聞いた時は、止めておけばいいのにと思い、実際決まりかけていた女優には気の毒だが、スピルバーグが本作の監督に興味を失くして製作に回ったと聞いて安堵した。どう頑張ったところで、ある程度完成度の読めてしまう作品に才ある監督が時間を取られることの意味の無さを嘆かずにはいられなかった。とは言え、傑作「シカゴ」のロブ・マーシャルが手掛けると聞いても、良かったとは素直には言えず、しかし、ロブ・マーシャルの側に引き寄せてしまえばある種の価値だ見出せるかもしれないと思った。
 こーゆー作品になると途端に国辱だとか、興奮する方が知り合いにも居て、「ロスト・イン・トランスレーション」程度でも激怒して途中で観るのを止めてしまったりして、それならハナから合わないのだから、その手のものは観なければ良いと思うのだが、マメに観に行っているところを見ると、不快感を起こすこと自体を求めているとしか思えないのだが。日本映画で外国描写が怪しかろうが気にならないらしいので、勝手なものだと思う。
 この作品は、日本的な世界観を持ったファンタジーだと思って気楽に眺めている分には適度に楽しめる。敢えて言えば一昔前の、かくし芸大会の英語劇みたいなもので。
 ただ気軽に観るには2時間26分は長過ぎる。せめて2時間以内にしてほしかった。
 芸者モノは好きだが、日本映画では溝口健二が「祗園の姉妹」を筆頭にとんでもない領域に突入した大傑作を戦前に作ってしまっているので、五社英雄のテレビ的ケレン味に満ちた作品なら兎も角、近年の「おもちゃ」など、佳作だとは思うが溝口に比べると遥かに及ばないし、「あげまん」にしたところで、タイトル以上の面白さは本編にはなく、古めかしい芸者のハナシに過ぎなかった。そういう意味では「SAYURI」もハナシ自体は古めかしいもので、非常にオーソドックスなものだが、それを日本映画にはない過剰な装飾の物珍しさで、飽きずに眺められるという程度のものだ。
 チャン・ツィイーはやはり可愛いし、ミシェル・ヨーコン・リーの色気には魅せられるし、工藤夕貴も儲け役で善戦している。女優達を眺めている分には、例え着物の着付けが妙だろうが、女優達で画面が映えるのだから良い。それにしても、メインの一人にはせめて日本人女優を、という声が多いが一体誰を差し出せば良いのか。少なくとも、チャン・ツィイーミシェル・ヨーコン・リーに匹敵するだけの女優を出さなければならないが、誰か居るのだろうか。まあ、最近は米倉涼子が平気で何の怖れも無く杉村春子を演じたり、米倉の演技が良いと言った価値観の崩壊現象が起きたりしているから、とんでもない名前を平然と挙げるヒトも居るのだろうが。
 絶壁の空撮を経て、更に戦後篇があるので流石に飽きるが、コン・リーのヒールが魅力的だっただけに、火事後の没落、又は戦後どうなったかといったところまで描いてあると良かったのだが。その分、戦後は工藤夕貴が得をしているが。
 全体としては、もう少し短ければ楽しめた。ロブ・マーシャルは生真面目に映画にしているが、題材的にはもう少し軽さが欲しい。