イベント 「没後50年 溝口健二 国際シンポジウム MIZOGUCHI 2006」

molmot2006-08-24

8)「没後50年 溝口健二 国際シンポジウム MIZOGUCHI 2006」(有楽町朝日ホール) 

12:00 主催者あいさつ 黒井和男
12:05 はじめに 蓮實重彦山根貞男

12:15 セッション1「日本における溝口」
阿部和重(小説家/『シンセミア』)、井口奈己(監督/『犬猫』)、
柳町光男(監督/『カミュなんて知らない』)、山崎貴(監督/『ALWAYS 三丁目の夕日』)

14:00 セッション2「女優の証言」
香川京子(女優/『山椒大夫』『近松物語』)、
若尾文子(女優/『祇園囃子』『赤線地帯』)

14:40 休憩

15:15 セッション3「助監督の証言」
田中徳三(監督/『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』)

15:45 セッション4「世界が見た溝口」
ビクトル・エリセ(監督/スペイン)、ジャ・ジャンクー(監督/中国)、ジャン・ドゥーシェ(監督・映画評論家/フランス)
+「日本の監督たちとの対話」

18:15 休憩
18:45 上映作品について(東京国立近代美術館フィルムセンター岡島尚志

18:50 特別上映
「朝日は輝く」(1929年/25分/18fps/35mm/サイレント/モノクロ/東京国立近代美術館フィルムセンター所蔵)
「東京行進曲」(1929年/29分/18fps/35mm/サイレント/モノクロ/シネマテーク・フランセーズ所蔵最長版)
19:50 終了予定

   ちょうど50年前の1956年8月24日、溝口健二は58歳の若さで亡くなった。25歳で監督になり、サイレント期から活躍していたせいだろうか、随分年老いた巨匠というイメージを長らく持っていたが、90年代前半のキネ旬淀川長治蓮實重彦の溝口をめぐる対談を読んだ際に、初めて58歳で亡くなったのだと知った。例えば、もし後30年溝口が生き延びて88歳迄生きていたとしたら、実に1986年まで溝口が生きていたことに―無意味な空想は止めにしよう―ようは可能性の映画史を考えれば、溝口は遥か過去に生きて映画を撮り、死んでいったのではなく、ことによると自分が小学校に行き始める頃まで生きていたとしても、ちっとも不思議ではなかったわけだ。ごく近い世代のヒトだということが、ひどく奇妙で且つ現代に生きる溝口という視点を持つことができる。もっとも、果たして生きていたとして、60年代以降の日本映画の衰退から大映倒産を目にしなければならなかったわけだから、早世はある意味幸福だっと言えなくもないが。或いは、永田ラッパは、今井正でやった「妖婆」のような形で、沈黙を余儀なくされた溝口を引っ張り出してきたりしたのだろうか、などと止め処なく妄想してしまう。
 蓮實重彦が自らかつて語ったように、一時期的に溝口が忘れ去られたのは、新藤兼人蓮實重彦に原因があると思う。新藤の醜悪なドキュメンタリー映画と、蓮實が小津や成瀬を書いたのに溝口を一冊の本にして書かなかったことが、70年代後半から80年代にかけての決定的な溝口離れを生んだのではないか。後述するが、本日のシンポジウムにおいても、海外の監督達の余りに豊かな溝口体験に比べるのも貧相な日本の監督達の溝口軽視が目立ったが、これが現実であり、今秋からようやく溝口健二はスクリーンで改めて発見されるのだと思いたい。だからこそ、カタログの人を食ったタイトル『はじめての溝口健二』には正当性がある。

   平日に正午から20時迄続くシンポジウムに参加できる人種というのがどういった人たちなのか。しかも2500円という例によって朝日関連の映画イベントの高さにも屈せずやってくる人たちである。自由業とは名ばかりの誠に不自由な生活を送っている自分にとっては、休み明け且つ月末にかけて仕事が立て込んでいる中で丸1日参加することは、後々のスケジュールを考えた場合、恐ろしくなるのだが、溝口の没後50年に居合わせる機会は二度とやってこないし、生誕200年は当然不可能だが、没後100年に立ち会う自信も日々薄れていることだし、無理して参加する。ま、チケット買っちゃってるからには、しゃーない。2500円を捨てるのは忍びないだけだ。これで今月は脇目もふらず働くのみで映画を観に行くこともできそうにない。
 それは兎も角、時間を間違えて、せっかくチケット購入時の整理番号が早かったにも係わらず、朝日ホールに着いた時は既に開場後の開演直前だった。最近は都心は特に旧作だろうが何だろうが激コミで、まさか溝口も超満員で立ち見を余儀なくされたらどーしよー、などと割と真剣に不安がっていたのだが、会場に入ると7割程の埋まり具合で、ホッとしたようなガッカリしたような。とは言え、平日にここまで入れば大したものである。しかも2500円も盗って8時間以上の長さで。
 最後列席には、アテネ・フランセの松本正道氏が居た。因みにこの方の業績は「シネクラブ時代」の終盤に蓮實重彦によって詳しく聞き出されているが、いつも姿をお見かけする度に尊敬の念を持って見ているので、こういった目撃情報は生活臭がし過ぎて嫌だ。雅やかな映画の愉しみに浸っていたいものだ。
 まあ、まあ、それは良いとしてやや後方の真ん中に席が取れたので良しとして、シンポジウムが始まった。
 初めに主催者あいさつとして、黒井和男が登場したので、一気に不愉快になる。このオッサン嫌いなのだ。白井佳男がキネ旬編集長解任後に後任となり、現在のキネ旬の凋落を招いたと思い込んでいるが違うのか。もっとも自分がキネ旬をリアルタイムで買い始めたのは、ちょうどこのオッサンと植草が入れ替わる時期なのだが。このオッサンが‥オッサンと連呼するのも面倒だし、黒井和男と呼ぶのはもっと不快なので、以降ハンガーと呼ぶ。*1
 ハンガーの言葉には一々腹が立ったが、大映の名前を消して角川の名前が全面に押し出され、旧作のソフト化にパッケージや(C)に大映表示がされなくなった恨みは忘れない。「羅生門」や「雨月物語」が角川映画の如き誤解を与えるのは、そう詳しくない方面には混乱必至で、映画会社のカラーも糞も後世には伝わらない。この場でハンガーは、「雨月物語」のリメイク企画を発表した。オリジナルに匹敵するライターがいないという理由で、脚本は川口松太郎依田義賢のオリジナルをそのまま使用することに遺族からの了解も取ったそうで、監督、キャストは未定とのこと。再来年公開を目指すそうだ。「雨月物語」のリメイクと言えば、既に青山真治で進んでいるものと思っていたので、角川製作の「雨月物語」と、青山真治の「雨月物語」が同一のものなのかどうか。同じなら誠にケッコーなハナシで、青山監督もこれを機会にデカイ予算でやれれば申し分ないのだが。先頃出た青山が書いた「雨月物語」を映画化のベースに‥と思っていたら、これは角川学芸出版から出ているので、無関係ではなさそうだ。角川×青山真治×役所広司あたりでやるんだろうか。まあ、「雨月物語」をリメイクできるのは、青山真治黒沢清ぐらいしかいないのではないか。個人的には後、大映継承者として市川崑とか。
 それにしても、「犬神家の一族」の脚本そのまま再使用してのリメイクと言うか再現映画化みたいなのから、元祖角川の春樹さんの「椿三十郎」も脚本そのまま使うと言うし、「雨月物語」までもとなると、何だか妙な感じがする。誰がそういった作品を求めているのか。

 蓮實重彦山根貞男が登場し、セッション1「日本における溝口」が始まる。これは人選が納得はできはするものの変で、阿部和重×井口奈己×柳町光男×山崎貴という無茶な並びである。阿部と井口は良いとして、柳町はちょっとなあと言うところへ山崎貴である。因みに山崎貴の悪口を書くと、未だにこんな末端ブログにも、すんごい怒ったヒトから腹に据えかねる的な意味不明のメールをごくタマにいただくのだが、何かあんまり批判するとそのうち家焼かれるんじゃないかと思うぐらいで。別に特撮出身だから馬鹿にしているわけでは全くなく、むしろそこらの自主映画上がりより、山崎や樋口にはかなり期待していたし、可能性を感じていた。だから「ジュブナイル」も「リターナー」も公開時に直ぐ劇場で期待して観て、前者には不満を感じたり、後者には決定的な欠点を幾つも抱えながら擁護したい箇所もあったりしつつ観ていたので、『「ALWAYS 三丁目の夕日」を観てから「ジュブナイル」を観て‥』とか書いてくる奴にグダグダ言われたくない。言われなくても観てますよと。なので以降山崎貴という名前は一切出さない。
 三丁目の能無しの厚顔無恥さは、僅か4本の溝口作品を観たのみでこの席に臨んだことで明らかだが、これは本人のみの問題でも、主催者が強引にブッキングしたわけでもなく、恐らくプッシュした蓮實重彦山根貞男が悪い。共に「ALWAYS 三丁目の夕日」を随分と評価していて呆れたが、今日の場でも蓮實は、あの作品の三浦友和の亡霊とのシークエンスのショット解析しながら泣いたことをゲロし、あれは「雨月物語」だ!と言い出した。で、三丁目の能無しも調子に乗ってヘラヘラ喋るという悪夢のような光景が展開された。まあ、確かに夫々が忠実な蓮實・山田宏一チルドレンである阿部や井口の発言は、あまりにも蓮實・山田的言語に収まってしまいがちで、確かにココに中原昌也青山真治が居た方が充実するとは思いはするものの、それではあまりに内々過ぎるだろうから、これぐらい幅を持たせた方が良かったのか。とは言え、いかに日本の監督が溝口を観ていないかを露呈する場でもあった。ビデオでも超有名作以外にも松竹などからも戦中戦後間もなくのビデオも出ていることだし、その気になればいくらでも観ることができたのに観ていない。
 結局、低レヴェルな監督がヒトデナシかどうか的論議に終止したのは残念で、そこに組しなかった柳町光男は正しい。やはり、黒沢清青山真治クラスと吉田喜重クラスが居ないと弾まない。まあ、小津シンポ参加者は外したのだろうが、溝口を語るには分不相応だった。

   セッション2「女優の証言」では、香川京子若尾文子が夫々登場して溝口の記憶を語る。50年以上前のことながらその言葉は、一挙に現場に立つ溝口を想起させ、伝説的に語られるだけになった一種の亡霊としての溝口を、生者の側から生前の姿へと引き戻す効力を持っていた。若尾文子の演技が不味く4,5日たってもフィルムが回らない状況の中、宮川一夫がメイクを変えることをアドバイスし、現場が動き始める様など、現場の高揚感が伝わるようだった。
 香川京子ビクトル・エリセが、若尾文子ジャ・ジャンクーが花束を渡すのも、映画史の時制を越えた奇妙な空間に居るようだった。

   セッション3「助監督の証言」では田中徳三の証言を聞く。蓮實重彦の言葉にもあったように、田中徳三の監督作のハナシこそ聞きたいのだが、今回は溝口の助監督としての証言を。今回のシンポジウム全体の悪しき雰囲気を見事に壊してくれる京都人的なはんなりとした物言いで、もっとオッサンの映画は単純に面白いもんでっせと言われれば、まったくそうで、妙な持ち上げ方が溝口を観ることに奇妙な特権性をもたらしているように思えてならない。それは冒頭にハンガーが、永田ラッパの言葉として、黒澤や小津と違って溝口健二市川崑はわかりやすいと言ったということにも通じる。

   セッション4「世界が見た溝口」では、ビクトル・エリセ×ジャ・ジャンクー×ジャン・ドゥーシェが居並ぶという壮観な光景が舞台に展開され、溝口のためにこれだけの監督が来てしまうことの凄さを感じずにはいられない。夫々の溝口観、溝口体験が30分ずつ程度に語られたが、殊更に印象深かったのは、ビクトル・エリセが軍隊時代に毎晩2時間の自由時間に映画館で溝口を連日観ていた回想で、これがもう映画の1エピソードを見ているかのような素晴らしさで、門限内に戻らないと懲罰にかけられる為、必死で走って帰ったと語るのが実に鮮やかに映像となって想起させた。
 後半は『日本の監督たちとの対話』ということだったが、対話にも何にもなりゃしない。そりゃ三丁目の能無しとビクトル・エリセらの豊かな溝口体験は比べるべくもなく、彼らのこの機会を逃したら、もう観ることができないかもしれないという必死さで画面に見入り、そこに展開される溝口の凄い画面に圧倒された体験を語られれば、日本の監督が沈黙するしかないのは当然で、大体ここに共に並ぶに相応しいのは、監督では井口奈己しか居ないのだから仕方ないか。
 そして最後は、先日亡くなった同じく溝口を愛したダニエル・シュミットへの追悼を蓮實重彦が口にしてシンポジウムは終了した。
 尚、冒頭より各セッションが始まる際に溝口作品の一景が上映されるのだが、終盤にも同様なことがあった。シンポ終了を告げた後に映し出された悪夢的美しさに満ちた溝口のラストシーンと共に、今日の大半が素晴らしかった溝口体験を思いながら終わっていったのだが、象徴的な出来事として、ビクトル・エリセジャ・ジャンクージャン・ドゥーシェは席に座ったまま、後方のスクリーンを凝視していた。一方日本の監督達は―薄暗く後方からしか見ていないので確実なことは言えないが―、井口奈己を除いてさっさと席を立っていた。
 ともあれ、蓮實重彦山根貞男両氏は出ずっぱりだったわけで、高齢という言い方は失礼だが、山根氏はキネ旬の連載を休載したりと健康面で不安要素があったりしたので、遠目ながら元気そうに見えたのが何よりだった。いつまでも二人がこういった場に立っていて欲しいと思う。

*1:黒井製作のキネ旬赤字解消映画として作られた武田鉄也主演の「刑事物語」シリーズでハンガーヌンチャクという非映画的武器をこれみよがしに使っていたのが有名だった為