映画 『紙屋悦子の青春』

molmot2006-11-24

272)『紙屋悦子の青春』 (岩波ホール) ☆☆☆★★★

2006年 日本 バンダイビジュアル/アドギア/テレビ朝日/ワコー/パル企画 カラー ビスタ 111分
監督/黒木和雄    脚本/黒木和雄 山田秀樹     出演/原田知世 永瀬正敏 松岡俊介 本上まなみ 小林薫 
http://www.pal-ep.com/kamietsu/kamiya.wmv 
 混んでる岩波ホールなんて、ババアだらけに決まっているので、夏からずーっと後回しにしていたら、今日で終わるというので慌てて観に行った最終日最終回。岩波ホールで映画を観るときはいつもそうで、前回来たのが丁度一年前の『亀も空を飛ぶ』の最終日で、これも傑作だった。

 
 黒木和雄の遺作となった『紙屋悦子の青春』は傑作だった。こちらも秀作ではあったが、『父と暮らせば』よりも好きだ。
 言わずもがなのことだが、黒木和雄の遺作と作品の評価は関係ない。どんなに好きな監督であっても、酷い失敗作や愚作を最期に作って死んでいくヒトだって居るし、それは仕方ないことだ。その場合は、しっかり何が悪かったかを明らかにする必要があり、一方的な好意は真の傑作までをも愚作と塗れさせるだけだ。苦労して撮ったから、プロダクションが倒産の危機に遭いながらも製作した、自宅を担保に入れて製作した、知り合いだから‥といった画面に映っているものと無関係なところから映画を称えても何にもならない。
 などとわかりきったことを書くのも、遺作を絶賛すると最期だから良い様に思うだけと言う奴が居るからで、不感症対応の為に敢えて書いておく。

 
 戯曲をそのまま使用するという『父と暮らせば』に続くスタイルへの批判があるようだが、確かに表面的に観れば無茶である。本作の開巻での病院の屋上のベンチに座る原田知世永瀬正敏の老けメイクでのやりとりを10分に及ぶ時間で見せている段階で、普通ならば映画が傾く。長過ぎるし、交わされる科白がいかにも演劇的だし、そうよく出来ているわけでもない老けメイクでは重い芝居場は長時間持たないだろうと。それも初めはロングだからいいようなものの、やがてはフルサイズやバストにもなるのだから、これでいけるという確信とスタッフへの信用がなければ成立しえないようなシークエンスだが、成立してしまっていることに驚く。インサートされる陽の光や雲も良い。
 そして昭和二十年へと移る。ここからは全てオールセットであり、家を主としたその軒先程度の広さのみで描かれる。『父と暮らせば』に比べても格段に凝縮された世界であり、CGも使用していない(これについては後述する)。
 木村威夫によるセットが素晴らしい。玄関先の階段を昇った先に見える電柱も良いし、室内の配置や調度品も正に息づく様に作られている。戯曲でオールセットという非映画的要素が強く感じられるものの、このセットは映画のモノだと思えた。
 原田芳雄が、同じく戯曲をそのままにセット撮影が多くを占めていた『父と暮らせば』が映画になったのは、鈴木達夫の撮影に負うものが大きいというようなことを言っていたが、それは確かにそうだと思えた。今回は、黒木和雄のカメラマンローテーションに合わせて(本当にそんなものがあるのかどうかは知らないが)川上皓市が担当しているが、一見したところでは技巧を凝らしてというよりも、どんどん削ぎ落としたシンプルな撮影に思えた。ロングから同ポジで控えめに寄ったりと、ぎこちなく感じるくらいシンプルなカット割で見せていく。
 技術スタッフの充実した仕事を得て、この作品は強固な世界観を築くことが可能になり、その中で役者達はその空間に生きていた。
 今回、出演者は皆、黒木和雄と初めて組む人ばかりで、その辺りの意図を知りたいとも思う。何せ原田芳雄が出ていない黒木映画なんて『夕暮まで』以来か。助監督も日向寺太郎が監督になったので居ないという中(もっとも商業的要請というわけでなく、黒木和雄自身の意図としてそういった形になったのだろうが)、勝手が違う面があったのではないかとも想像するが、ある種、阿吽の呼吸で通じ合える長年の伴走者が居ない緊張感に満ちた状況での演出こそが、この作品に相応しいのであろうと思えた。しかし、原田芳雄や、石橋蓮司桃井かおりもこの世界に居ると思わせた。登場はしないが何度も会話に上るハナシ好きの駅長は原田芳雄ではないかと思ってしまうし、熊本の工場には石橋蓮司が居るように思ってしまう。
 役の設定から言えば、原田知世永瀬正敏も遥かに年長であるが、30年前の物語であっても、当時の20歳を現在の20歳では描けないと言われるのと同様に、実年齢では39歳と40歳の二人が、恐らく20代前半であろう役を演じていても些かの不思議さもなく成立している。そこに小林薫の妻として本庄まなみが居るとなると、そのバランスに妙を感じる。しかも原田と本庄は同級生というのだから、益々その不均衡さを感じるが、しかし、それが欠点ではなく魅力になっている。と言うのも本庄の存在が妙な色気と艶かしさを感じさせるからで、後述する食と性に通じるセックスを体現する形で存在している。ダテにモノマガ副編と引っ付いただけある。それに、明らかに演技としては最も不味いのだが、そのたどたどしさが役に合っていて、どうなんだろうかと心配していたが良かった。他の役者は当然のように良いし、原田知世は『サヨナラCOLOR』でも柔らかで魅力的だったが、今回も凛とした女性を魅力的に演じていた。
 といった世界観の構築と役者が魅力的にこの世界を生きて来ると、映画は大きく輝きだす。観客は直ぐにこの世界に連れ込まれ、昭和20年を生きることになる。 
 
 フト、先般渋谷の街頭で週末恒例のライトウィングな車の上で、直ぐに水泡に帰す空疎な言霊を都心に響かせていた20代前半のオトコが、「戦中の方が現在よりも遥かに幸福だった」と自分が横を足早に通り過ぎようとした時に怒鳴り散らしたので、腸が煮え返るような気分になったのを思い出した。それを経験したニンゲンがある種の意味を持って言っているなら兎も角、空腹も飢えたこともないような奴が何を言っているのかと、今更この手合いに言ってもハナからしょうがないハナシだが、こういったヒトは『紙屋悦子の青春』を観てもやはり食にも多少の不自由はありながら幸福な時代と受け取ってしまうのだろうか。
 空腹と飢えを出してきたのは、この作品が徹底した「食」をめぐる映画になっていたからで、初めの夕食、翌日の見合いの席での、おはぎ、数日後の夕食の席での赤飯とラッキョ、明石少尉が最期の挨拶に来た際のパイ缶(科白で聞いた時は何か判らなかったが、後のシーンでパイナップルの缶を渡したのを見て納得した)、後日訪れた永与に昼食を食べていくように奨める、といった全てのシーンにおいて「食」が密接な関係を持っており、田舎なのである程度食料事情は良好だったかもしれないが、それでもやはり、「食」が非常に拙い状況であることには変わりはなく、話題の中心に常に「食」に纏わることが語られる。
 ディテイルを細かく再現し、「食」を突き詰めることから戦争を描き出した手法は見事で、空襲警報一つ鳴らない映画でありながら、戦争の大きさと悲惨さが家の中だけで痛いほど伝わってきた。
 ニンゲンの三大欲である『食』を丹念に描くことは、人間を描くことであり、同時に「性」を描くことでもある。この作品では一見、直接的な描写は勿論、雰囲気にも一切、本上まなみ小林薫の夫婦の性生活を示唆するような描写はない。しかし、二人がモノを食べるという描写を丹念に描き、そのことで口論になったり激昂するといった中で十分にセックスを感じさせる。何も直接セックス描写があるから偉いのではない。『タンポポ』以来の「食」による「性」を描いた秀作であり、戦時中の「性」を描いた作品とも言える。 

 
 劇中で三度語られる悦子にのみ聞こえる波の音は、『竜馬暗殺』で言うところの一斉に皆が空を見上げているシーン同様の、黒木和雄の好む、わけのわからないモノを劇中に投下しておくことの延長にあるものだが、見終わってもいつまでも忘れ難い。

 
 前述の前作『父と暮らせば』で使用されていたCGを使用しなかった点については、とても良かったと思う。『父と暮らせば』での原爆投下直後のシーン、ラストのパンアップしたら原爆ドームといったCGの使い方が、作品の魅力を消していたように思う。大体低予算映画で、かなり重要な意味を持つ原爆投下シーンを、実写を補う程度な使い方なら兎も角、CGに依存しきって描こうとする方が間違いで、おじいちゃん監督に多い、この質でよくOK出したなという酷いCGでも、興奮してこんなん出来るんかと喜んで使ってしまう弊害に黒木和雄も陥っていたのを苦々しく思いながら観ていた。こういうことを受け入れてしまう監督の共通パターンとして、CG独自の極端なカメラワークすらも受け入れてしまう。それまである種のリズムを持って積み重ねられてきたショットと無縁なCGでしかできない動きで見せてしまっては浮くのは当然だ。ラストのパンアップしたら原爆ドームというのも、寓話性に相応しい質をCGで補えるという前提の基で使用するべきで、果たしてあの質でそれが出来ていたと言えるかどうか。黒木和雄に限らず、何故厳しい視線で作品を作り出している監督がCGになると柔軟すぎる態度になってしまうのか。
 そういったこともあり、本作ではどうなのか心配していたが、そういったCGには頼らずとも素晴らしいまでに戦中の世界、空気が作り出されていたことに感動しつつ観ていた。

 
紙屋悦子の青春』は演劇的脚本、空間でありながら、紛れも無い映画的空間を作り出した黒木和雄の秀作だった。これは一つの到達であり、本来はこの後もまだまだ、山中貞雄へ向けて次回作に予定していたともいう原田芳雄主演の股旅モノなど多様な作品を見せてくれる筈だっただけに、この素晴らしい作品が最期になってしまったことが惜しまれてならない。