『鋪道の囁き』『海でのはなし。』

molmot2007-01-09

日本映画史横断② 歌謡・ミュージカル映画名作選

 ようやく今年最初の映画となる。相変わらず日本映画の旧作上映が盛んで、フィルムセンターは今回の特集に続いては、『シリーズ・日本の撮影監督(2)』が控えているし、小ホールでの『CHANBARA① 市川右太衛門』もあるわ、シネマヴェーラは、今の『大俳優・丹波哲郎の軌跡 - 死んだらこうなった!』の後は、『帰ってきた「次郎長三国志」とマキノ時代劇大行進!』、その次は詳細不明ながら90年代日本映画特集をやるようだし、一方でラピュタ阿佐ヶ谷も例によって朝昼晩で異なる特集を組んでくるし、殊に『ミステリー/サスペンス映画特集』の第二弾が嬉しくて、『恐怖の時間』や『一万三千人の容疑者』(←吉展ちゃん事件の映画化)、『悪魔の手毬唄』(高倉健金田一版)『死者との結婚』などもかかるし、neoneo坐はneoneo坐で、1月は『筒井武文のワンダーランドへ』があるし、2月には『園子温 全8ミリ作品 完全上映〜『エクステ』全国東映系公開記念!〜』もあるしで、日本映画の旧作を追いかけるだけで苦労しそうだ。

1)『鋪道の囁き』 (東京国立近代美術館フィルムセンター) ☆☆★★

1946年(1936年) 日本 加賀ブラザーズプロ モノクロ スタンダード  84分
監督/鈴木傳明    脚本/    出演/ベティ稻田 中川三郎 関時男 花房銀子 由利健次 鈴木傳明
中川三郎ダンスの軌跡―STEP STEP by STEP ダンシング・オールライフ―中川三郎物語

 
全く知らなかった作品で、それもその筈、<1936年に製作されながら公開は戦後となり、1996年にアメリカで発見されるまでフィルムは行方不明とされていた。>という作品且つ、加賀ブラザーズプロ製作の言わば自主映画に近いものらしいので、日本映画史の表には登場しない作品だが、作品としては素人芸に留まっている欠点の目立つ作品ではあるものの、戦前の和製ミュージカルとしては魅力的な箇所もあって、割合楽しんで飽きずに観る事が出来た。
 ベティ稲田や、中川三郎というのは全く知らないのだが、ダンス方面では名高いヒトらしく著作も幾つか出ている。

 物語は、帰国したベティ吉田が全国巡業を終えると興行師に騙され金を持ち逃げされ、悲観にくれて街を彷徨し、無銭飲食でトラブルになっているところをダンサーの中川三郎が助けて自宅に連れ帰るが、同じアパートには、ベティの取り巻きの胡散臭さを心配し、ベティにその旨注意を呼びかけようとするも取り巻きが邪魔をして近づけなかった鈴木伝明(?)が住んでいたので、ベティは中川らのバンドで歌い、踊る。
 といった他愛ないもので、演出と脚本が巧くないので、エピソード間の繋ぎが物凄く下手で、開巻からベティに会おうとして会えない鈴木が、同じアパートにベティが居るというシチュエーションに、観ていて、おっ、これは擦れ違いコメディに持っていくなと期待したら、即部屋に行って、何のヒネリもなく、「おや、君はベティじゃないかい?」と言い出して簡単に会えてしまったので引っくり返りそうになった。
 戦前の東京の風景も多く出てくるし、都心のアパート生活描写も良いし、中川三郎の自室のピアノが家賃不払いで大家に鍵をかけられて開かないようになっていたりと、面白くなるお膳立ては揃っているだけに、もっと活かせなかったものかともどかしく思いながら観ていた。各エピソードのぶっきら棒な挿入は、中川の自動車事故や、死の唐突さにしても、画面で見せずにいきなり科白で聞かせてしまうから起こってしまうことだ。最も残念なのは、このフィルムに欠損がないという前提で、ベティが苦悶の果てに唄い出すクライマックスの肝心な箇所がないことで、コートを脱ぎ、スーッと歩き出すショットまではあるのだから、彼女が声を出す瞬間こそを見せてほしかったのに、病院の中川へと繋いでしまう。次のカットではもうベティは歌いだしている。
 警官とのやり取りの、余りのスローテンポさや、素人俳優のリアクションを拾っていくから野暮ったくなっているとか問題はあるにせよ、決して秀作でも何でもない作品だが、プログラムピクチャー的楽しさに満ちていて、主題歌を口ずさみながら劇場を後にできる作品だった。
次回上映は、1/21(日)16:00から。


2)『海でのはなし。』 (ユーロスペース) ★

2006年 日本 「海でのはなし。」製作委員会 カラー ビスタ  71分
監督/大宮エリー    脚本/大宮エリー    出演/宮崎あおい 西島秀俊 天光眞弓 保積ぺぺ 菊地凛子 毬谷友子 勝野洋

 

 現在のミニシアター系日本映画を劇場で観る時は、一種のカケである。まず大アタリはフィルム撮影でフィルム上映されること。これは相当運が良い。35mmなんてゼイタクを言ってはイケナイ。スーパー16や16であってもラッキーと思わねばならない。その次はビデオ撮影で上手くフィルムレコーディングされている時。場合によってはフィルムとパッと見、区別がつかないような時もまた運がいい。その次は、ビデオ撮影で、プロジェクター上映だが、画質が良いとか再生機が良いとか、そういう場合。これも良かった方だ。ビデオ撮影を受け入れるなら、そういう場にめぐり合いたいものだ。最悪なのは、画質も上映もよろしくない時で、昨年の『愛妻日記』『饗宴』は、金をとって上映するプロでは絶対不可な画質だった。
 ユーロスペースは(ココだけではないのだが)、上映作品がフィルム上映かプロジェクター上映か事前に告知しない劇場なので、始まってから初めてそれが分かるということになるが、画質の悪い作品が入り込むのは、単純にマスター作成時の問題なのか、上映用マスター作成時に何かあるのか、或いはユーロのプロジェクターとの相性に何かあるのか。と、『愛妻日記』『饗宴』の時と同じ様なことを書き出したのも、あの時ほどではないにしても、今回も画質が良くなかったからで、確かDVX-100で撮影している筈だから、DVとは言え、編集もどうせFCPだろうし、こんなに画質悪くなるかなと。ま、これはユーロがどうこうというハナシではないのでそれ以上は言わないが、上映中に前方左右の天井からの間接灯を消さないのは如何なものかと。ユーロは前の座席との間隔が狭いので真ん中に座ってしまえば上映中に出るのは至難の技だし、始まって5分で完全に萎えさせる映画だったので、もうどうでも良いと思って態々言いに行くのは止めて放置したが、照明のせいで、スクリーンに反射した光がモロに差し込んで見えにくくなってるし、いいかげんな上映やってんなと。今回は気にならなかったが、ココはプロジェクター上映の時に映写室でライトを点滅させることがあって、後方から光がチラチラして来るのが妙に気になったことが何度かあった。
 そんなわけで、ユーロスペースでのプロジェクター上映への信頼は一切しないようにしているが、観たい作品がやたらとココで掛かっているんだから仕方ない。好きな劇場だけに残念としか言えない。
 戦後の映画全盛期には、何を映しても客が入るから、観客、上映へのケアなどお構いなしで見せてやってるという横柄な態度を取り続けた結果、シネコン登場以前の、あの街の汚い映画館へ到ったわけだが、ミニシアターというのは、そういう不満を解消してくれる理想的な映画館だった。と、ミニシアターに通い始めたばかりの中学生の自分は思った。非常灯は消えて真の暗闇で良い音響で、ピントのあった良い映写で映画を観る事ができる。スクリーンは小さいが魅力的な空間だった。まさか、最近の映画が好調だとか、ユーロも割合好調な観客動員をしている作品が多いようだし、そんな往年の映画興行者的横柄さが出てきているとは思えないが、批評家はビデオ作品の大半はサンプルビデオで観ているのか、試写室の環境がよほど良いのか、上映での画質の悪さなどは一切口にしないから、金を払って観ている観客が映画館側の不当さに対して真剣に抗議するしかない。


 作品の周辺状況と作品自体は無関係なので、以降作品についてのみ触れるが、大変な誤解をしていたことに気付いた。自分は映画を観に行ったのだとばかり思っていた。ところがそうではなかった。スピッツのアルバムに本来ついているであろう特典映像を劇場で垂れ流しているのだとは知らなかったのだ。しかも、観ていくと、どうもアルバムについている特典映像ではなく、カラオケのバックに流れている映像らしいと納得したのも束の間、どこかの学生が学祭用に作った自主映画らしい。音楽は手近にあったスピッツのアルバムを頭から順にフルで入れているだけで、科白を聞かせるためにバックの音を絞るということをしないから、音の方がデカイか、科白と同じレヴェルで入っている。これも初めは、鈴木清順の『悲愁物語』みたいなもんで、それなりの狙いがあってやっているのかと思っていたら、そこで交わされる科白は単にスピッツを聴かせるためにバックで流れているだけの当たり障りないものでしかなく、単純な記号としてすら機能していなかった。
 映画とは、こーゆーもので、こうでなければならないと当て嵌める気は更々なく、自身の狭い定義に入ってくる映画しか認めないのでは、大半の映画はつまらないに違いないが、スピッツは高校の頃ならよく聴いていたし、こういった作りの作品が駄目だと言う気もないし、『Trancemission』みたいに、映画以前の出来でもイエモンをデカイ音で聴けたねというだけの作品があっても良いとは思うが、『海でのはなし。』は、せいぜいカラオケでバックに流れているか、ファン向けの無料上映会で流しておく程度のもので、これを金をとって見せるのが凄い。おすぎが「私小説的映画の傑作」と言ったとか完全にボケたのではないか。まあ、大宮エリーは可愛いから良いけど。ただ、このヒトが脚本を書いた『男はソレを我慢できない』といい、自分とはもう全く合わないのはよくわかった。
 宮崎あおい西島秀俊という現在の日本映画の中心的存在の二人を使ってコレでは、あまりにも辛い。
 全篇、ひたすらスピッツをフルで流しましたというだけの映画なので、何も言うことが無い。せいぜい『ハチミツとクロバー』といい、最悪な映画にスピッツ流して誤魔化すのは止めろということぐらいしか思わなかった。本作でも、また『魔法のコトバ』が流れんのよ。それもそのバックでは意味なく西島秀俊が道路を大股で歩いてたり、日本映画スピッツ禁止令を発布したくなった。
 終盤がまた呆れさせて、研究室の棚を引っくり返した西島が(これもありきたりな表現やね)、寝ているところへ宮崎がやってきて、いつの間につけていたのか西島のCDウォークマンを外し、宮崎はイヤホンを自分の耳に差して、再生を押す。この段階で止めてくれ!と叫びそうになったが、再生すると、『ロビンソン』が流れんのよ。聴いている宮崎、寝ている西島としう俯瞰のショットが、延々と続く。何故なら『ロビンソン』が終わるまでこのままでいなければイケナイという趣旨らしいから。しかも途中で宮崎はイヤホンを外して西島につけてやるのに、音はそのままフルで流れ続けている。じゃあ、あのイヤホンを付けて、再生を押す動作は何やったんやと。
 で、ラストは意味なく海へ出るだけ。日本映画、意味なく海へ向かうこと禁止の法はできないものか。まだ『きょうのできごと』みたいに、座礁したクジラ見に行くとかあれば良いが、『ハチミツとクロバー』でもそうだが、シーンの展開に詰まったからと安易に海へ行くな。
 今年一発目の新作だと言うのに最悪な作品だった。昨年観ていればワースト1にしていたと思う。
 とは言え、現在のミニシアター系日本映画の悪しき象徴の作品として一見をオススメする。ヒットしているようだし、大阪でも神戸アートヴィレッジセンターでも上映されていたので、そちらで観ようと思っていたぐらいだったので、少しは良い作品なのかと思っていた。観客の中には、良かったと言ってるヒトも居たようだし、自分には全く理解不能なので是非良かったという方にどこが良かったのか教えていただきたい。