『どろろ』

molmot2007-03-04

41)『どろろ』 (Tジョイ大泉) ☆☆★

2007年 日本 「どろろ」製作委員会 カラー ビスタ 138分
監督/塩田明彦     脚本/NAKA雅MURA 塩田明彦    出演/妻夫木聡 柴咲コウ 瑛太 杉本哲太 麻生久美子 土屋アンナ 劇団ひとり 原田美枝子 中村嘉葎雄 原田芳雄 中井貴一
 
 「『どろろ』観た?」と聞かれることが何度かあった。未だ観ていないと答えると、さっさと観ろという返しに続いて、評判悪いらしいから観ないつもりだ、といったようなことを耳にしたりする。そうすると自分は機嫌が悪くなる。
 まず、いつ観ようがこっちの勝手で、大分前にメールで全然知らない奴から、首都圏に住んでいながら新作を観るのが遅いというようなことを書いたものを送って来られた時も、大きなお世話ですから、そんなに早く見て欲しいなら前売り券くださいと返したが、こっちはその時々の体の空き具合と気分で観る作品を選んでいるのだから、それで結果的に観たかった作品を見逃したり、頭欠けて観たりしても、自分で悔やむなら兎も角、他人にトヤカク言われる筋合いは全くない。そんなに言うならチケット寄越せと。 
 次に、評判悪いらしいから観ないという主体性の無さは、興味が無いから観ないとは根本的に異なるし、現在の日本にそれほど信用の高い批評家や、信用のおける観客など居るんだろうかという疑問と共に、一度は自身が興味を持ったのに、<評判が悪い>というだけで観ないというのは、他人を信用し過ぎている。ネットのブックマークなんかでよく批評に対して<適確な批評>みたいなコメントを見かけるが、そう書いたヒトが肝心の該当作を観たり、読んだりしてなかったりする。何を根拠に適確と判断しているのか疑問に思うことがある。
 自分は基本的に信用しているヒト、そうでもないヒトも含めて、良いと言っているなら、観に行く姿勢は極力取るようにしている。そのヒトたちが罵倒している作品があれば、その罵倒は無視して自分の目で確かめる。つまりは良い評判だけ耳を傾けておけば良い。自分が興味を引いている作品であれば、それへの悪い評判は無視する。
 そうしてそれなりの作品を観ていくと、自身の選択では観に行かないような興味も無かった作品に、大して信用もしていない批評家なり知り合いなりが、良い良いと言っているというだけで観に行ってみると、意外な秀作に出会えたりすることもある。勿論、同じ数だけの、どうということのない作品や愚作にも付き合うハメになるわけだが。しかし、厳選して傑作しか観ないなんてのは、これほどつまらないことはない。傑作か駄作か見当もつかない状態で作品に接する際の胸の高鳴りこそが、映画の面白さだと思う。

 
 などと、至極当然の前フリをしたのは『Always 三丁目の夕日』以来だが、自分のような公開終了間際に観るタイプだと、兎角既に出尽くした<評判>の影響を受けて、始めから批判的な視点で観ているから駄目だと思うんだと言われるので、ようはそんなことはないと言いたいが為だが、そこまで予防線を張っているのは、自分も『どろろ』が極めてつまらなかったからに起因する。

 
 そもそも、手塚治虫の作品を実写化、それも時代劇をやって巧く行くわけがないというのは、既に三十年近く前に、市川崑が、『火の鳥』の実写化に挑んで壮絶な大失敗をやってのけているのだから、始めから分かっていたことだ。映画史の失敗の事例を学んでいるのかいないのか知らないが、『火の鳥』を越える駄作だと思った。
 あまりにも皆全否定に走り過ぎていて、2/3ぐらいまでは案外良くて、最後の1/3で駄目になったというのが真っ当な見方だというような意見も耳にしていたので、それなら幸いだがと思って観ていた。何せ、監督は贔屓筋の塩田明彦だし、脚本はNAKA雅MURAだし、『あずみ』みたいな監督とその仲間でメジャー映画を撮らせると、商品として成立していないような作品を作ってしまう事例が近年は多かっただけに、この二人ならプロの技量で「大作映画」を見せてくれるのではないかと期待した。一応、実家から原作を取り寄せて再読しようとか、CSで放送したアニメ版を見ておこうとか、観る前に色々備えていたのだが、例によってそれで荷物が増えただけで、何も読まない、観ないまま、映画版を観ることになった。

 
 観ると、開巻からずーっと不可だった。2/3どころか、1/4ぐらい、ちょっとだけ良いところがあったぐらいか。
 根本的にこの作品には、闇が欠けている。物の怪、魑魅魍魎が跋扈する世界でありながら、世界が明るすぎて夜が夜ではなく、闇が闇ではない。
 開巻の中井貴一が魔物と契約を結ぶ堂内ですら薄ら明るい。蝋燭の灯を主にし、補助光を当てるぐらいにしてあるものの、この作品はHD撮影なので、フィルムでなら高感度フィルムを使って―分かりやすい例で言えば、『仁義なき戦い 広島死闘篇』の終盤みたいな色合いに(当時のフィルムと現在のフィルムでは同様の発色は質の向上により難しいようだが)なったであろうが、ビデオなので単純なゲインアップにしかなっていないので、画質の荒れが単なる荒れとしか機能しておらず、そこまでして明るくしたところで闇はどこにも見当たらない。
 それは以降全篇に渡ってそうで、テレビ放送に向けた約束事なのか、原田芳雄の家でも照明のまんべんなく当たった明るさに辟易し、更に意図が掴めないカラーコレクションが全篇に施されていて、最初はCGを馴染ませる為に、『アヴァロン』の様に、実写の情報量とCGの情報量の違いをノーマルカラーでそのまま乗せては差が明確になり過ぎるし、CGが多用されているっぽいので質の問題もあって、カラコレで色の情報量をある程度一定にしているのかと思った。『CASSHERN』でも同様だが。ところが観るとそうでもないらしい。
 基本的に日本映画のこのレヴェルのCGに依存した描写というのを嫌っているので、ハナからどうしようもないことだが。それにしても、明らかにCGと分かるもので描写の中心の重要な箇所を担われても困る。補間の意味合いで使用するなら兎も角、実写と区別が付かないリアリティではなく、CG描写はそれはそれとして受け入れよと言われても、やはり所詮チャチなものにしか見えない。それも大量にこれ見よがしに使いまくるから、いくら寓話性と言ったところで、血も生々しさが全くなく、登場するCGの魑魅魍魎がまた画面手前まで飛んできたりして大写しになるのだが、そんな寄って見せれる質なのかと思った。それは城もそうで、この作品に限らず『戦国自衛隊1549』等でもそうだが、ロングで映すだけなら良いにしても、寄ったり、破壊、倒壊を見せるのにあの程度の質のCGで作った城では、映画が持たない。観客に補間して見て欲しいと言っているのか、ミニチュアとどっちが良いと聞いているのか知らないが、何にしてもチャチなのは、作品そのものが安っぽくなるだけだ。
 前半の魑魅魍魎が悉くCGのせいもあり、演出自体がかなり振り回されている印象を持った。塩田明彦がこんなショットを撮るんだろうかと思うことが何度もあった。
 CGに振り回されている(大作になればなる分、口を出すヒトも増えるという事情もあるだろうが)というのは、思いつきではなく、中盤の妻夫木聡柴咲コウが旅を続けながら、次々と魑魅魍魎を倒していく点描部分では、途端に演出が生き返っているように感じたのは、あのパートでは大半が着ぐるみなり実際に現場で役者と絡ませることが出来ているからではないかと思う。だから観ていて、初めて映画が跳ね上がったような印象を持った。それでもこのシークエンスのCG使用部分―舌が伸びてきてというようなところでは途端に駄目になったが。
 だから、非常に評判の悪い終盤も、草原でCGにそう依存せずに芝居場になっているというだけで、まだ見れるんじゃないかと思い、そう酷く感じなかった。
 そして、この作品を前に挙げた二箇所以外で救っているのが柴咲コウで、彼女がこの作品の救世主的存在に思える程、勝気に画面内を飛び跳ねていてくれたお陰で、相当な救いになった。だから、観ながら、早く柴咲出て来いと願うこともしばしばで、あまり活躍できていなかったのが残念ではあったが。

 もうあまり言う気もないが、適当に書いておくと、開巻間もなく妻夫木聡が酒場に居るシークエンス(セット安っぽすぎ、照明明るすぎ、テレビドラマの大作みたいな雰囲気で唖然とした)で、ダンサーの扱いを眺めていたら、手塚眞の『白痴』のメディアステーションでのダンサーを思い出した。80年代自主映画野郎達のダンサーとの因縁は何か。
 後、原田芳雄って、『白痴』にも出ているのは兎も角、『あずみ』にも出ているわけだが、TBS製作の時代劇では、こーゆー役回りをやるという決まりごとがあるんだろうか。
 演技のアンサンブルがバラバラなので観ていて疲れる。土屋アンナが黙ってれば画になるが、喋りだすと全く駄目だとか、原田美枝子が一人クロサワ映画やってるとか。
 中井貴一瑛太の存在だけで、一本の作品の芯にしなければならないのに、そうなっていないのが弱い。大作だから、前半は別口で、というのも分かるが演出も脚本もそうはなっていないように思える。既に塩田が参加する前に出来ていたという膨大な『どろろ』の世界を描いた検討稿から、現在のその一部を描くという改稿の過程で、巧く行かなかったのではないかと予想したが、どうなのだろうか。

 塩田明彦は好きな監督だけに、メジャー大作を撮って、プロの演出を見せ付けて欲しいと思ったが、『ファララ』『優しい娘』『露出狂の女』『月光の囁き』『どこまでもいこう』『カナリア』みたいな、秀作、佳作、或いは力のある欠点を抱えた作品での巧さはなく、残念だった。
 ちなみに塩田明彦大和屋竺の関係性から本作を観ると、大和屋脚本で若松孝二が監督した『金瓶梅』を想起した。