『マリー・アントワネット』

molmot2007-03-12

48)『マリー・アントワネット』〔MARIE ANTOINETTE〕 (Tジョイ大泉) ☆☆★★★

2006年 アメリカ・フランス・日本 I Want Candy LLC カラー ビスタ 123分
監督/ソフィア・コッポラ     脚本/ソフィア・コッポラ    出演/キルスティン・ダンスト ジェイソン・シュワルツマン アーシア・アルジェント マリアンヌ・フェイスフル ジュディ・デイヴィス 
 
 『ロスト・イン・トランスレーション』の初見時に書いた通り、血縁の映画史に照らし合わせれば、ローマン・コッポラとソフィア・コッポラは、カーマイン・コッポラからと言っても良いのだろうが、父コッポラ以降の特権的映画からの恩恵を受けながら、自身の才を伸ばした才人であると、『CQ』や『ロスト・イン・トランスレーション』を観る限りは言って差し支えない。
 ただ、まあ、嫌味に見えるのは致し方ない面もあるとは言え、『マリー・アントワネット』の規模に拡大されると、その声も一段と大きくなり、公開前からの罵声は、『7月4日に生まれて』でオリヴァー・ストーンが、『あげまん』で伊丹十三が徹底的に嫌われたのと同じ様な状況を思い出した。
 しかし、本当に血縁の映画史という位、やたらと血縁の恩恵によって撮ってしまうのが映画なので、その程度のことで怒っていたら、そのうち映画館では監督の蜷川実花新藤風に心底怒りを覚えたり、家でヒッチコックのDVDを観ていたらパトリシア・ヒッチコックに怒りを覚えたり、『映画芸術』を読んでいたら某の娘に怒りを覚えたりと、気の休まる暇が無くなった挙句に、あの雅やかなエルンスト・ルビッチの『牡蠣の王女』とか観ているだけで腹が立つとか、ルキノ・ヴィスコンティが金持ちだから許さんというようになってしまうのではないかと過剰な状況を想像してみたりしたが、何にしても観ないままに悪しざまに映画が晒されるのは嫌いなので、笑ってやりすごすのが映画だと呟きながら、二時間ほどつきあって観てしまえば何を言っても良いのだから、ともあれ劇場に向かうべきだ。
 ところで、もうこの作品の上映も終わりかけているが、自分が行ったシネコンの夜19時半の回は、観客が自分一人だった。100少々のキャパとは言え、シネコンだから、それなりの大きさのスクリーンに一人で対峙するのは贅沢ではあるが、どこか寂しさも感じた。大体、完全に一人になったのって数年ぶりではないか。『フィフス・エレメント』とか何本かあったが、東京で映画を観ていて一人になったのは初めてではないか。しかもポイント溜まってたからタダで観たし、ラッキーと思いつつ、途中で尿意を催したから、今ならビニール袋にジョロジョロとやってしまっても問題ないと一瞬思うも、ある一線を越えてしまいそうなので我慢した。

 
 ソフィア・コッポラの長編第三作は、ローマン・コッポラを二班監督に据えた歴史劇ではあるが、当然視点は、これまでの作品に続いて、女の子の自分探し要素に満ちたものになっていて、それはソフィア・コッポラがやるからにはそうなるのは分かっているので、いかに従来の歴史劇へのアレンジを試みて、ガールズムービーにしてしまうかが期待であった。
 開巻のタイトルクレジットの中に、マリーが横たわるカットがインサートされていたが、既にここで、『ロスト・イン・トランスレーション』に続いて本作が横たわる映画であることが明らかになり、本編に入ってからのファーストカットは予想通り、寝ているマリーを捉えたカットだった。『ロスト・イン・トランスレーション』のファーストカットが、横たわるスカーレット・ヨハンソンの薄ピンクの透けた下着を中心に据えたショットで、以降も全篇に渡って横たわるものの時差ボケによって眠れないという、ベッドを中心に据えた横たわる男女の物語だったが、本作も横たわるという視点は一貫していて、横たわる=ベッドで眠る=セックスという、ベッドをめぐる横たわる男女の物語であることは明白で、ラストカットが破壊されたヴェルサイユの二人の寝室のベッドを捉えたカットであることからも分かる。
 基本的に前作と作品構造は何ら変わりは無く、異文化へ女子が孤独に入り込み、そこではしゃいでいるだけなのだが、とりあえず、キルスティン・ダンストが可愛いので、冒頭からしばらくは見飽きない。何せ犬を抱いて歩いている姿とか、抱擁する姿とか、ケーキを口にして微笑む姿とか観ているだけで、ひたすら可愛い可愛いと思って観ていたのだから、世話は無い。
 ただし、ヴェルサイユに来て、豪華絢爛な日常と、夜の営みの不発を反復して描く前半が、全く描写としての進展が無く、マリーを普通の女の子の様に描くことに腐心するのは良いとしても、その描写への補強がコスチュームプレイと、美術とお菓子に依存しすぎていて、流石に退屈させられた。
 この作品は本来、艶笑譚にならなければならない筈で、いかに夫とセックスするか、しないかのせめぎ合いを、エルンスト・ルビッチハワード・ホークスの様に、とまでは言わないにしても、せめて自発的ヘイズ・コードでも設定して如何に直接描かずに、セックスを描くかを観たかった。ビル・マーレイみたいな芸達者が居るなら兎も角、かくし芸大会の井上順にしか見えないジェイソン・シュワルツマン相手では、演出で踏ん張ってもらわなければ、本当に単にマリー・アントワネットを今の女の子っぽく表層的に描いたガールズムービーでしかない。
 ソフィア・コッポラがその辺りに全く興味がないのは、最も肝心と思われる、妊娠・出産という前半を引っ張ってきた要素をいとも簡単に省略して出産するまさにその時へと飛ばしてしまうやり口からも伺え、省略ではなく描写を抜いたとしか思えなかった。そのくせ、不倫相手であるフェルゼン伯爵とのカラミは、横たわる全裸のマリーが扇子で体を隠しながら誘い、二人が体を重ねるのを俯瞰のショットで見せるところまである。
 舞踏会にお忍びで紛れ込み、ダンスシーンにポップスを流したり、バースデイパーティを『ロスト・イン・トランスレーション』のホテルから脱出してトーキョーを彷徨するのと同様に、ハンディの短いカットで見せたりといった手法は全然嫌いじゃない。ただ、あまりに内容空疎な中でそれをやっても際立たないと思っただけだ。それでも、舞踏会からの朝帰りの馬車の中から窓越しに外を見つめるマリーや、朝までバースデイパーティーではしゃいだ後に椅子に横たわって寝ていた彼女が目覚めるカットなどに、ハッとさせるような愛らしさがあり、魅力的に感じはした。全篇に渡って馬鹿みたいに薄笑いを浮かべているだけと言ってしまえばそれまでだが。
 
 ポップでありながら歴史劇であろうとするのは難しい。
 劇場での観劇中の拍手を孤独に行うマリーという描写が前半後半二度に渡って反復され、そこでマリーの影響力の低下が示されるが、こういった見せ方や、或いは肖像画に描かれた家族の人数によって、子供の死を描くといった手法、特に後者は中々良いと思いはしたが、本作の様な方法論で作られた作品だと、その効果が十分にあがっていないように思われた。
 結局、歴史劇にはしないと言いつつ、歴史劇として全うする為に悲劇的結末の序章までを描いているが、処刑まで描かないのは正しいが、僅かに民衆からの反発のニオイを感じるくらいまでで終わらせた方が良かったのではないかと、終盤の民衆が押し寄せてくるパートの、それまでサボっていた描写のツケが一気に押し寄せて来て一気に取り留めないものになっているのを目にしながら思った。

 
 コッポラ一家は、映画から愛されているようではあるが、一族的に時として、特に歴史モノやら少し規模が大きくなると、見事に空転させるところまで似ているのは少し考えものだという気がするが、ソフィア・コッポラがこんな表層的にフィルムの上をスルスルと滑走してしまうような作品を撮ってしまわれては困る。