『エイブル・エドワーズ』

molmot2007-03-26

映画美学校「映像翻訳講座」演習科 フィクション翻訳演習ミックス翻訳課題 優秀翻訳上映会 
上映とトーク 超低予算SF映画の可能性  高橋洋×柳下毅一郎

 上映作品よりも、高橋洋柳下毅一郎トーク目当てに行ったようなものだが、映画より遥かに面白かった。困ったことに。
 大体月曜の18時から開始のトークにそうヒトが詰めかける筈が無いのだが、妙に咳かされて階段を急いで昇って30分前に着くと、当然のことだがガラガラだったが、最終的にはそこそこ席が埋まり、隅の方に中原昌也氏が座ってたりするような場にはなっていた。

 
 現在における超低予算SF映画の可能性とは、ビデオ撮影、自宅のPCで編集・合成を行うことだが、デジタルシネマの全盛時だけに、さして目新しい話題が交わされるわけでもなかったが、余りにも容易に受け入れすぎる風潮に対する慎重姿勢を二人が見せているのは当然とは言え頼もしく、安易なCG描写に依存した作りを簡単に受け入れられては困るだけに、非常に納得しながら聞いていた(因みに柳下氏が『エイブルエドワーズ』と同じ様な感じで一人で作った…と例を挙げられていた『空のこえ』は間違いで『ほしのこえ』のことと思われる)。 
 
 後半は、高橋洋の新作にして映画美学校で製作している『狂気の海』のメイキング映像を流しながらの解説。
 ブルーバックを多用した地底人モノで…、相変わらず予算の枠を大きくはみ出すようなことを堂々とやっているようで、完成が楽しみだ。『ソドムの市』でもそうだったが、表面的にチープだからと見放して済んでしまうならハナシは早い。あの作品の厳密なショットの繋がりと的確な演出は、画面上のチープさを遥かに上回る豊かさに包まれていて、逆に狙って配置しているチープな演出部分が浮いてしまうという逆現象を起こしていて面白かった。あの規模の作品で豊かな佳作を作ってしまったのだから、当然心あるプロデューサーはそれに相応しい予算を高橋洋に計上すべきなのだが、現在のところ、既に幾つか聞こえて来ていた、相応の予算枠の企画が悉く中止となっているのは、恐怖映画のみならず、日本映画の大きな損失だ。

 それだけに、80万で撮っているという『狂気の海』も、たかが超低予算の実習作品に留まらず大きな期待を持っていると、講師自体は好きなヒトが多いので、いつもはイヤゴトの10や20は言う某校の作品とは言え、完成を楽しみにしている。
 高橋洋ブルーバック合成や、デジタルエフェクトを多用した演出をあの規模で試みるというのも楽しみで、個人的にも学生の頃は実写のドラマにブルーバック合成を多用したりしていたので、インデペンデントの規模で行う合成等の在り方として、高橋洋がどういうモノを提示してくるかが気になる。


 『エイブルエドワーズ』自体は、一人よがりの典型で、監督が何役も兼ねることの悪弊を改めて観た思いだが、ブルーバック撮影ありきで製作しているので、ショットの繋がりがギコチナイどころか、成立していない部分も多く、『CASSHERN』などを例に挙げれば判り易いが、必然性の無い寄り等が混じってくるのが不快で、単純に技術的にロングにしてしまうと背景を作りこまなければならないから寄っておこうというだけの寄りでしかない。そんなショットが何のリズムもなく入ってくるのは許し難い。
 だから、背景がチャチだとかという問題は二の次で、演出とショットの選択さえ誤らなければ、多少のチャチさなどどうにかなってしまう。

 
 などと腹を立てつつ観ていたが、後半になると、どうでも良くなり、昨日から寝ていないので何度か睡魔に襲われながらも辛抱して観ていたが、重ねて眩暈と吐き気がしてきたので、映画への印象はより悪くなったのかもしれない。終映後、近所の中古ビデオ屋やユニオンを物色したかったが早々に電車に飛び乗ったものの、途中駅で降りてホームで座り込んで呼吸を整え平静を取り戻すという、おじいちゃんみたいな真似を久々にするハメになったが、以降は復調した。睡眠は重要である。『エイブルエドワーズ』は寝た子も起こす凄い映画というわけではない。


63)『エイブルエドワーズ』〔ABLE EDWARDS〕 (アテネ・フランセ文化センター) ☆★★

2004年 アメリカ グラフィック・フィルム モノクロ ビスタ 85分
監督/グラハム・ロバートソン     脚本/グラハム・ロバートソン    出演/ケリ・ブルーノ ブライアン・カーペンター ドナ・キムラ ケン・キムラ アンドリュー・ラモンド