『かぞくのひけつ』

molmot2007-12-25

344)『かぞくのひけつ』 (ユーロスペース) ☆☆☆★★

2006年 日本 シマフィルム カラー 83分
監督/小林聖太郎    脚本/小林聖太郎 吉川菜美   
 出演/久野雅弘 秋野暢子 桂雀々 ちすん 谷村美月 テント 九十九一 長原成樹 南方英二 浜村淳


 大阪映画の秀作である。
 この作品自体は、昨年より十三の第七藝術劇場で先行公開されていたので、今年の正月に観る予定だったが逃してしまい、東京公開を待つこととなった。秋口にはユーロスペースで上映されそうだと聞いていたので待っていたが、結局年末公開となり、こんなことなら十三で観ておけば良かったと後悔したが、作品を観るとその思いはより強くなった。十三で観たかった。
 志摩敏樹率いるシマフィルムは、これまで森崎東の『ニワトリはハダシだ』、若松孝二の『17歳の風景 少年は何を見たのか』を製作しており、これらの作品を観れば分かるが、既にシマフィルムの作品というだけで信用がある。いずれも他の制作会社では難しいであろう題材を映画にしている。
 三作目となる『かぞくのひけつ』は、これまでの森崎東若松孝二という巨匠から一転、小林聖太郎のデビュー作となる作品だけに意外に思ったが、原一男中江裕司行定勲篠原哲雄、渡邊孝好、井筒和幸、李相日、森崎東山下敦弘根岸吉太郎などの助監督を8年務めてきただけに、何だかよくわからないような新人監督の作品を観る前の不安感は無かったが、作品を観てみると、新人監督の初々しさも残しながら、近年稀に見る安定した演出には、すっかりくつろいで劇場の座席に体を委ねることが出来た。日本映画監督協会新人賞受賞も当然というべきで、才能ある新人監督の誕生に嬉しくなった。
 これは言わずもがなのことではあるが、小林聖太郎の父が上岡龍太郎であることは明らかにされているし、出演者の顔触れを見れば、関西人なら、夫々どう関係があるかも直ぐに理解できる。小林聖太郎自身、問われれば答えるが、自分からそれを言うことはないという好ましいスタンスなので、こちらもそれを態々強調することはないのだが、ちょっとした偶然が観る前にあった。
 自分が観たこの日は、スポーツ新聞に笑福亭鶴瓶がヤンタンに息子のバンドを出演させたことが記事になっていたが、まあ、この息子の存在は、年が同じこともあって、兵庫県下では高校の頃から何かと名前を聞いてはいたのだが、それは兎も角、そんな記事を読んでからユーロスペースに足を運んでいると、必然的に何度も公録に通った『鶴瓶上岡パペポTV』のことを思い出したりしていたのだが、ユーロに着くと、大阪弁のオバハンの、「これが監督したウチの息子で」という声がしているので、フトそちらを見ると、小林聖太郎上岡龍太郎と夫人がいた。ちなみにこの奥さんは、14歳の時に梅田花月の楽屋に友人三人と遊びに行ったことで上岡と知り合った漫画トリオのファンである。詳しくは、ちくま文庫上岡龍太郎かく語りきー私の上方芸能史』参照。
 どんどん『かぞくのひけつ』から話が逸れていっているが、『鶴瓶上岡パペポTV』終了後の『LIVE PAPEPO 鶴+龍』の末期に公録で生の姿を見たのが最後だったので、7年ぶりに生の上岡龍太郎を見ることが出来た。と言って、既に引退されているし、極力存在感を消そうとされているので、パペポで育った以上はジロジロ見てはイケナイから(目で殺されるのである)、一瞬見たに過ぎないが。もっとも、今年は横山ノックの通夜、送る会でのテレビでの露出があり、桂雀々桂ざこばの会などにも出演したそうだが、年末に生で見れたのは嬉しかった。
 そんなわけで、劇場の席に着いても、上映前に後ろから大分声は掠れたとは言え、上岡の話声が聞こえてくる中で『かぞくのひけつ』を観るという、出来過ぎた環境からして乗せられるのだが、だからと言って映画を過大評価する気はなく、映画は映画だ。


 観る前の情報としてあった町おこしとして作られた映画、大阪の人情モノ、家族の…などと言われれば、コテコテでベタベタの映画を想像してしまう。大阪人の勘違いと言うべきか、エエ街でっせ大阪は、というのは胡散臭い。自分にも多分にあるが、自己愛が過ぎるので大阪を過剰に愛してしまい、それを映画にすると白けるということになる。だから、大阪映画は、大阪の近辺出身監督−奈良出身の井筒和幸や、コテコテを巧くかわす堺出身の阪本順治ぐらいの距離感が良い。或いは、絶対に関西人ならこうは撮らないという東側から見た大阪像で描く市川準の『大阪物語』ぐらいまで行くと、あれはあれで良いと思う。
 本作など、多分にベタになりがちな要素、演技も過剰になりがちな要素に満ちているが、小林聖太郎は、厳密にそれらを選り分けているので観ていて心地良いのだ。自分がいちばん嫌いな、相手のリアクションを切り返しで全部拾って、それをまたアップで分かりやすい表情をしているのを全部見せたりなどということは、撮影が近藤龍人ということもあって当然するわけもなく、引きで芝居を見せながら、的確な箇所でアップになるので、作品が濡れ過ぎない。と言って、乾きすぎても無味乾燥な作品になってしまうので、適度に濡らせているから普遍性もあり、自分の好みの作品に仕上がっていて嬉しかった。笑わせて、泣かせて、ベタにならず、過剰な芝居も基本的に排除して、でもここぞというところでは振り切れない程度に導入するという加減は難しいだけに、初監督作にして、そういったコントロールを、それもこの意表をつくキャストで(このキャストだから出来たのか)やってのけた小林聖太郎は凄い。

 深作健太の『エクスクロス』公開前のインタビューを読んで感心したのは、このネタなら90分以上持たないからそれ以内に収めることに腐心したというようなことを言っていたことで、小林聖太郎も完成尺を70分程度でというようなことを言っている。上映時間の長短が時代の移り変わりで変化しているのは、観客側から観ていてもよく分かることだが、撮影所時代から一本立て大作を担うようになった世代の監督、例えば市川崑深作欣二などはロングインタビューで語っていることだが、90分以内の時代から、2時間以内では短いと言われ2時間を越えるように要請された時代、再び2時間以内に抑えるよう要請された時代が巡っていると語っている。しかし、いくら時代の流れとは言え、殊に新人監督の作品などは90分を基本にすべきで、2時間などベテランの監督ですらも退屈させることがあるのだから、2時間半とか平気で撮るのはおかしい。又、CM監督が映画を撮るのはケッコーなことにしても、『茶の味』や『ナイスの森』ぐらいの軽い作品は90分ぐらいで観る分にはまだしも、2時間半とか平気で使われれは苦痛でしかない。
 ようは、自分の見せたいものを全部詰め込んで、尺のことなどお構いないでハナからディレクターズ・カットみたいな作品が多すぎる中で、深作健太小林聖太郎は、内容と適正尺を客観的に見つめることができる、一昔前の監督からすれば当然だということになるのだろうが、現在では稀有な存在だと言える。作品の完成度は『かぞくのひけつ』の方が遥かに高いものの、無駄に長くないので両作とも観ていて居心地の良いプログラムピクチャーとして楽しむことができる。

 この作品は、何よりも家族の物語になっているのが素晴らしい。主人公が居て、父親が居て、母親が居て、父の愛人が居て、主人公の恋人が居て、十三の町があって、そこに住む人々が居る。というそのことを、ブレない演出で丹念に描いていく。だから、テントの怪演や、南方英二の芝居など、本来ならば映画の流れが止まったり、傾きかねない過剰さがあるのだが、こんな人がいてそうな町として既に観客には了解されているので、笑いながら受け止めることができる。
 テントをよく理解している小林聖太郎だけに、撮り方に愛情があるし、出オチにしていないので、テントと主人公のやり取りからテントの歌に入り、歌が流れたまま、カットは淀川の堤防を走る自転車のロングに変わった時、ここに映画が発生していると思わずにいられない。それにこのエピソードがクライマックスに家族の話として結びつくのも素晴らしい。
 低予算だが、ちゃんと伏線と落ち葉拾いをやっている丁寧に作られた作品なので、終始心地良い。久野雅弘谷村美月だけの話になるかと思いきや、父と母と愛人と町も息づいていて、微笑ましく観る事が出来る小品の佳作になっていた。
 おそらく今後、小林聖太郎は規模の大きい作品を手がけることになっていく逸材だと思うだけに、期待したい。
 ちなみに、外からのガヤで交換車からスピーカーを通して聞こえる声の主はパンチだろうか?