『ザ・マジックアワー』(☆☆★★★)/『ジャージの二人』(☆☆☆★)/『トワイライトシンドローム デッドクルーズ』(☆☆☆)

 新宿オスカーで、三谷幸喜ザ・マジックアワー』(☆☆★★★)を観る。
 三谷幸喜は、一に舞台、二にテレビで、最も駄目なのが映画である、という思いは今回も変わらず。初監督作『ラジオの時間』以降、全作の封切りに付き合っている身としても、興行収益とは裏腹に作を追う毎に完成度が低くなっているのに付き合うのは正直なところ苦痛で、新作を観るのが骨の折れる存在になってきたという思いが強い。
 監督第二作『みんなのいえ』で映画的資質の著しい欠如を露わにした三谷が、以降5年に渡って監督作を発表しないのは賢明だと思っていた。だから、三作目の『有頂天ホテル』で演劇の方法論を主体にしていると耳にした時には、うまくいくのではないかと期待した。しかし、結果は映画にする必要を全く感じない凡作に終わった。それが大当たりしたせいか、本作では大掛かりな街のセットを組んだ大作になったようだ。
 作を追うごとにつまらなくなる三谷監督作の法則に則って、本作がこれまでで最もつまらない。中心軸にはこれまでの舞台でも繰り返されてきた、極めて手慣れたすれ違い・勘違いによるシチュエーションコメディが展開し、この部分は確かに面白いし、実際何度か声をあげて笑ったし、相変わらずの三谷の巧さに感心もした。しかし、その周りに過剰に装飾されている部分がひどくつまらない。つまりは架空の街や、映画を撮っているという設定や、映画への思いを語る部分が、である。
 街をセットで大掛かりに作りこんだと聞いていたので、街全体を作ったオールセットかと思いきや、案外ロケやロケセットが多いので空間の広がりや世界観としてバランスが悪く、全部セットに持ち込んでほしかった。ただ、種田陽平の凝ったセットはよくできているとは思うも、それを映画として活されていたとは言い難く、冒頭のホテル前からカメラが前進移動して、クレーンで二階まで上昇し、一芝居あってまた後退し…という流れからして随分弛緩しきっているので不安に駆られたが、案の定、この豪華なセットを使いながら映画を観ていると息づかせる瞬間は遂に一度も訪れなかった。所詮は往年のハリウッド映画の表層的な雰囲気だけを取り込もうとしているだけなので、とてもそれだけでは2時間16分もの長尺は持たない。観ながら、舞台でこれをやっていれば面白かっただろうにと思う。映画で映画のハナシをする困難さへの無頓着さや、伊丹十三の悪い部分を受け継いだとおぼしい、狭苦しい画面設計に違和感しかないアップなど、どこを取っても映画であるという思いを持つことはなかった。往年のハリウッド映画もどきの大がかりなセットを組んで、それらしく撮ろうとしたら、東宝撮影所の天井の低さが災いして、あまり引きの画が撮れないことに愕然としたからかどうかは知らないが、終始映画ではないものを映画館で見せられているという思いしかなかった。
 妻夫木聡綾瀬はるかといった初出演組は好演だったが、それ以外は、大がかりなセットと三谷調に慣れすぎたのか、大芝居になりがちで、殊に深津絵里戸田恵子のオーバーアクトには閉口させられた。
 市川崑の出演が唯一の見るべき箇所か。ただし、こんなものを捧げられても市川崑も迷惑だろう。市川崑は脚本を読んで、面白いけど長いと感想を漏らしたそうで、正に無駄に長い。
 パンフレット購入。600円。


 角川ガーデンシネマで、中村義洋ジャージの二人』(☆☆☆★)を観る。
 何も描かないことを、これほど堂々と宣言している作品も珍しいと思うほど何もない映画ではある。敢えて背景も関係性も語らない。だから、父と子の関係も、後半登場する妹とも血が繋がっているのかどうかさえも定かではない。
 描けていないのではなく、敢えて描かないという選択をしているわけだが、それが可能になったのは、鮎川誠と堺雅人の存在感が凄いからだろう。それに隣人には、 大楠道代などという飛び道具まで用意してある。
 原作を読んでいないので映画でしか判断するしかないが、何も描かないにも関わらず、不思議と嫌悪感はなかった。『かごめ食堂』系の如何にもな作りではなく、狙いに狙っているようで脱力させる不思議な雰囲気が出ていて、観終わって時間が経つほどに妙に良い印象となる。
 ただ、鮎川誠の存在感に負い過ぎで、そのキャラクターの裏がない。観客は、劇中の人物ではなく、鮎川誠を思ってその裏を想像するしかない。
 水野美紀が良く、僅かの出番だが、映画での久々の当たりではないか。
 パンフレット購入。600円。


 新宿ディスクユニオンで中古DVD『昼下がりの情事 古都曼陀羅』を購入。1980円。

 シアターN渋谷で、古澤健トワイライトシンドローム デッドクルーズ』(☆☆☆)を観る。
 古澤健の作品は、『オトシモノ』を観るまで興味がなかった。意図的に避けていたと言っても良い。それだけに、『オトシモノ』を観た時の驚きは、それまで観ていなかったことの後悔と、後年確実に再評価されるであろう呪われた映画作家の放つニオイを感じたせいでもある。兎に角、既に公開終了に近付いていたので、誰彼構わず『オトシモノ』を観ろとふれて周った。果ては初対面の桂千穂先生にも、お嫌いな黒沢清一派と思われるかもしれませんが、どうか『オトシモノ』を観てくださいと言っていたのだから、今から思えば何を熱に浮かされたようなことをと思わなくもないが、その理由は『オトシモノ』を観ればわかる。その後、映画美学校の最初の実習制作である『怯える』を観て、古澤健の恐怖演出の的確さ、狂気の画面への定着具合の絶妙さに、これまで見落としていた自身を恥じた。僅かに作品に触れた印象だけで言えば、表面的には、古澤健行定勲のようにならないものかと思った。単純な図式で岩井俊二行定勲のように、黒沢清古澤健ということだが、メジャーのお仕着せ企画や大作をどんどんやって、8割言うことを聞きながら、後の2割で好き勝手やって、結果商品としての約束事は守っているが、どこか異物感のある作品を作るような存在にならないものか。その為には、ホラーに限らずあらゆる方面のジャンルを手掛けて欲しく、実際、『オトシモノ』を観た心あるプロデューサーなら、直ぐに発注するのではないかと思った。しかし、実際にはなかなかうまくいかなかったようで、メジャーに相応しい演出力を持ちながら、ガンダーラ映画祭用短編や、映画美学校実習作品などを除いて、新作長編が実現化する気配がなかった。何でも昨年にはスリラーの脚本が仕上がり、インが予定されていたようだが、流れたようである。呪われた映画作家らしく、などと言っている場合ではなく、それに相応しい監督として後世から驚かれるには、それなりの規模の作品が量産されていなければならない。
 そういう中で、突如、という印象と共に登場したのが『トワイライトシンドローム デッドクルーズ』だ。ゲームの映画化とのことだが、ミニシアターでレイトショー公開のみの小規模作品である。それでも『オトシモノ』以来の長編劇映画ということもあり、期待を持って足を運んだ。
 上映終了後、出演者目当てとおぼしい観客女性の違和感をモロに顔に出した表情が、古澤健の企みの成功を印象付ける。ユルい青春ホラーかと思っていたに違いない観客に、画面に登場するモンスター、引き千切られ、廊下に投げ出される手、足といった肉塊が突如現れる異物感が与える驚きは相当のものがあったのではないか。実際隣の席に座っていた女性客は、それらのシーンに「エッ!?」という声を挙げた。
 正にお仕着せ企画の低予算ビデオ撮りのホラーであり、そのチャチさをあげつらうことは幾らでも可能だろう。しかし、資本側の要求に応えながら、そういった悪意を忍ばせる古澤健の存在は、やはり面白い。殊に脚本作『ドッペルゲンガー』でも観客を喜ばせた『レイダース』な球体が突如上から転がってくるという唐突さをここでもやっていたり、剣のついた板が壁いっぱいに迫ってくるという状況で、押している人間の足が見えているところなど、やりたいことは断固やるという姿勢が見えて、その前には予算の大小など無関係であることが分かる。
 原作のゲームを知らないので、どこまでゲームに沿っていて映画オリジナルの要素がどれほど入っているのか分からないが、リセットという設定を効果的に使用した反復が面白く、そこに「痛み」という感覚を持ち込んだことで、恐怖を、単なる恐怖ではなく、痛みと、痛みが繰り返されることの恐怖を設定しているのが作品の奥行きを広げている。登場人物は極めて薄っぺらな造形で、仲村瑠璃亜などはいじめるだけの嫌な女という記号を与えられているだけだから、徹底して冷酷無比に寺島咲をいじめる。だから描写が過剰になっても構わないという割り切りがあり、何故そこまでするのかという疑問をこちらが持とうがお構いなしに展開していくのが良い。こんなところで、人間を描けとか、描けていないからダメだと言われても困る。
 本当は二本立ての添え物でフラリと入った劇場で観ることができていたり、フィルムで撮影されていれば印象がガラリと変わるのではないかとも思うが、量産されて流れ作業のように公開されてはソフト化されていく日本映画の中で、こういったごく小さな作品だが、悪意を秘めた作品が作られているのは支持したい。