『ラブ&ポップ』(☆☆☆★★★)/『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』(☆☆☆★★★)

 新文芸坐「映画を通して社会を見る。」へ行く。庵野秀明ラブ&ポップ』(☆☆☆★★★)と『ヱヴァンゲリヲン 新劇場版:序』(☆☆☆★★★)を観る。
 『ラブ&ポップ』は、劇場へ今回も含めて4回行って、計6回半観ている。『ヱヴァ』も3回劇場に通っていることになる。『ヱヴァ』は兎も角、『ラブ&ポップ』への執着はちょっと自分でも如何なものかと思う。それでも両作共、まだ飽きない。
 『ラブ&ポップ』は、一般的に言えば既に時代の腐食が作品全篇を覆っているかと思うが、それを言い出せば公開された1998年1月の段階で、とっくに同時代性からはズレていた。題材としても『バウンス ko GALS』が出た1997年末の頃、映画は今頃コギャルや援交をやっていると思ったものだ。
 しかし、庵野秀明は、一瞬で腐食することを覚悟の上でこの作品を撮ったのであり、その一瞬を記録する為には、35mmは当然のこと、16mmもスーパー16も、それを記録する媒体としては遅すぎると思ったのだ。唯一可能と判断したのが、市販化されて間もない時期の民生のデジタルビデオカメラだった。ホワイトバランスもフォーカスもオートで撮ったということは、誰でも撮れて、その場の、その瞬間の空気を瞬時に記録することに賭けたということだ。監督ばかりか、スタッフ、役者にもカメラを預けてしまい、勝手に撮ってこいというある種の放棄の姿勢は、AVや近年では『童貞。をプロデュース』に至るまで同じく実践されてきた、それまでの撮影現場で神格化されてきたカメラという存在を投げることで、映画への軋みを与えるという行為だ。
 映画への軋みが現われる瞬間―平野勝之の『流れ者図鑑』で、平野はそれまで撮影に使用していたDVカメラを道路に蹴り飛ばす。ガリガリと音を立てて路面を滑走して画面奥に行ってしまうカメラを映し出しながら、同行者の松梨智子は、「平野さん、テープ!」と叫ぶ。映画でありながら、もう一台あるとは言え、その映画を記録しているカメラを画面の中で壊そうとする。しかもその中にはそれまでの撮影分のテープも入っている。そんな光景を画面の中で見せられたら、観客は何とも言えない不安感に包まれる。それが『光の雨』や『カミュなんて知らない』のような旧来の神格化されたカメラを横に置き、小道具としてしかDVカメラを使用していない作品の場合、所詮はそれだけでしかなく、劇中でカメラを壊そうがどう展開しようが何とも思わない。
 1997年夏の渋谷を記録した『ラブ&ポップ』を真に面白がるには、1997年夏の渋谷で観るしかない。公開時にもソフト化された時にも、そして撮影から11年が過ぎた同じ夏に観ようとも、そこにあるのは古色蒼然とした手法と物語でしかない。しかし、劇場でフィルムで観ることによってのみ、『ラブ&ポップ』は延命を可能とした。DVで撮影しながらフィルムで生存可能とはどういうことか。現在レンタル店に置いてある『ラブ&ポップ』のビデオなりDVDを観てみると、ひどくつまらない。何故ならDVの画質がそのまま使用されているからだ。本来の画質で観るとつまらなく、劇場公開の便宜上フィルムにキネコされた汚い画質でなら延命が可能であることには、何度劇場で見返しても驚いてしまう。
 これで劇場で観るのは7回目となるラストの35mmでの渋谷川を歩くシーンに、脚本で書かれていたト書きは、「35ビスタになる。フィルムのありがたみを感じる客」である。フィルムのありがたみを感じはしなかったが、ビデオとフィルムが融合した映画史の切れ目が僅かに垣間見える貴重な一瞬であることは間違いない。1997年夏の渋谷が記録されたその一瞬と、ビデオとフィルムが融合した一瞬を観るために、劇場にかかる度にこれからも足を運ぶことになるだろう。

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