『暴力人間』(☆☆☆☆)

松江哲明のあなたと飲みたい 第六回『暴力人間』復活
(13)『暴力人間』
☆☆☆☆ 阿佐ヶ谷Loft A
監督/白石晃士・笠井暁大  出演/白石晃士 笠井暁大
1997年(1988年) 日本 カラー 81分

 先日の『ダンプねえちゃんとホルモン大魔王』といい、阿佐ヶ谷北口のラピュタ阿佐ヶ谷に拮抗するように、何やら阿佐ヶ谷南口方面には強力な自主映画の磁場が出ているように思えてならないが、松江哲明の主催する「松江哲明のあなたと飲みたい」に六回目にして初参加する。これまではタイミングが合わなくて、と言い訳するしかない程、何故か行くことができなかっただけにようやく参加できた。今回ばかりは参加せねばならないと思わせられたのは、前から気になっていた『暴力人間』が上映されることと、『ダンプねえちゃんとホルモン大魔王』上映後に松江監督から絶対観に来てと言われたので、その言い様がただ事ではなさそうな雰囲気が漂っていたせいもある。イベント開始の19時半を5分ほどオーバーしつつ阿佐ヶ谷Loft Aに着いたが、この手のイベントの通例で定刻に上映が始まったりはせず、前説をやっているだろうという読み通り、舞台上で松江、白石両監督が喋っていた。松江監督が言っておいてもいいと思うけれどもと前置きした上で、本作がフェイクドキュメンタリーであることを明かしていたが、余計なことではないかと思った。言われなくとも分っているが、よく分からずに来ている観客がいるかもしれず、それに観る直前に改めてフェイクドキュメントであることを明言してその印象をチラつかせながら観るのは作品にとって酷ではないのか。何故そんなハードルを上げるようなことを言うのかと思った。
 ところが、ハードルを少々上げようとも揺るがないのだ『暴力人間』は。だからこそ松江監督も敢えてフェイクドキュメントであることを改めて明言したのだろう。観終わってリアルタイムで観ることが出来ていなかったことを心底後悔した。『暴力人間』は90年代を代表する傑作の1本であり、90年代後半の『由美香』や『ラブ&ポップ』などと共に語られるべき凄い作品だった。この作品を同時代に観ることができていれば、その興奮はどんなものだったろうか。村上賢司の『夏に生れる』を近年ようやく観ることが出来た時も、この90年代を代表する傑作をリアルタイムで体感できなかったことを後悔した。如何に自分が表層的な映画のようなものだけを観てきただけかを思った。
 『暴力人間』には、ドキュメンタリーがフィクションに昇華される瞬間、またはその逆にフィクションがドキュメンタリーに変貌する瞬間が詰め込まれている。Q大映研OBへの復讐譚を白石晃士が追う。映研内という内に向いた世界を舞台にしながら、内輪受けの要素が皆無で、九州という舞台が素晴らしい方言世界を展開させる。そのせいで、フェイクドキュメントにありがちな自然を装った不自然なやりとりが鼻につくことも一切ない。更に暴力人間たる笠井暁大ともう一人の面構えが良い。明らかに性格が悪く、嫌な奴なのだ(実際はそんなことないらしいが)。しかし、方言と面構えと突発的な暴力が並立すると、観る者を心底不快にさせ、ゾッとさせるだけのリアリズムが生まれる。では、あたかも本当のような暴力を見せるだけで終わるかと言えば、そこに更に劇中の映研で作った作品や、90年代ならではのネタがまぶされ、笑いの要素も増えてくる。それでいて作品の流れが阻害されることも、脱線することもない。ここではもう、ドキュメンタリーとフィクションという二分法や、フェイクドキュメントという中間的カテゴリーも無効となる。一瞬一瞬で前述したようにフィクションがドキュメンタリーとなり、ドキュメンタリーがフィクションにもなる。更にこの作品はそこに留まることも良しとせず、青春映画として結実される。そこに至り映画の可能性と、ジャンルを横断していく映画の心地良さを堪能させてもらった。
 劇中のネタにも使用される90年代的要素である特ホウ王国や、塚本晋也山本晋也)が良いし、そして自主映画に大きな影響を与えた初期の北野武監督作品からの影響を、フェイクドキュメントというフィルターを通過させることで大半の自主映画が陥った稚拙さを回避させ(劇映画形式にしてしまうとFIXのロングを多用して観るも恥ずかしいモロに影響を受けた作品になってしまう。ちなみに実体験アリ)、途中で投げっぱなしにしても違和感のない作品でありながら、そこまでの完成度を破壊することも厭わず青春映画として着地させる大胆さには、やはり感動してしまう。
 上映後は、松江、白石両監督によるトークがあり、新作『オカルト』への期待が一気に上がった。その後の高橋敏幸with泥舟のライブは残念ながら時間がなく聴けずに帰ったが、しかし『暴力人間』を観ることができて幸福な気分となる。