映画批評家・双葉十三郎死去

http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY201001150406.html

 昨年12月12日に映画批評家双葉十三郎先生が亡くなっていたことが公表された。99歳だった。死去から1ヶ月以上経っているので、驚きも少し経てば収まったが、昨年中に聞かされていれば、訃報が相次ぐ2009年の末を双葉先生の訃報で締めることになっていたかと思うと、公表を遅らせてくれて良かったとも思う。
 映画批評家は長命の方が多いとは言え、トリオとして知られた同年代の野口久光(94年没)、淀川長治(98年没)に比べれば如何に双葉先生がお元気だったかがうかがえる。
 
 自分が双葉十三郎を知ったのは小学生の終わり頃だったと思う。既に淀川長治の映画本などは買い始めていたが、これは当然テレビの解説番組他の影響だ。一方、テレビ初期の頃には解説番組や伝説的なテレビ番組『日真名氏飛び出す』の原案者としても知られていたというが、自分の幼少児には既にテレビには滅多に顔を出す存在ではなかったせいもあり知る機会はなかった。
 当時購入していたテレビ雑誌『テレパル』の連載に、ホイチョイプロダクションの『酒とビデオの日々』というビデオ紹介コラムがあった。今から思えばバブル時代ならではのホイチョイの軽薄なライフ提案コラムを混ぜたような内容だったが、小学生にそんなことは分かりゃしない。単にテレビ放送の映画欄(『テレパル』はエアチェックに徹した誌面になっていて、地上波で放送される映画のオリジナル時間と放送時間を併記して各作品が何分カットされているか、またはノーカットかを細かく記している)の前にそのコラムがあったので読んでいただけなのだが、ある号のコラムで紹介されたビデオが『わが心のボルチモア』(90)だった。そこに双葉十三郎と『ぼくの採点表』が登場したのだ。何故なら『わが心のボルチモア』はこの年の双葉十三郎の外国映画ベストワン作品だったからだ。このコラムの中で現役最長老の映画批評家であること、『スクリーン』に現在も連載中の『ぼくの採点表』をまとめた単行本が発売されたこと、これが無類に面白いことが書かれていた。同じ頃にはじめて購入した『キネマ旬報』のベストテン号で、この双葉十三郎という人が参加していたことを思い出した。そこから双葉十三郎への興味が始まった。
 そんなわけで、自分と双葉十三郎の出会いはホイチョイのコラムがキッカケなのだ。しかし、いくら何でもこの組み合わせは軽薄すぎる、と思う。本当ならば小林信彦のコラムがキッカケとか言いたいのだが事実なのだから仕方ない。
 双葉十三郎に興味を持ち始めた自分が早速『ぼくの採点表』を手にしたかと言えばそうではない。近所のちょっとした中規模の書店には『ぼくの採点表』が置いていないのだ。後で分かったことだが、版元のトパーズプレスは小さな出版社で地方の小中規模の書店では取り扱う筈もなく、そうかと言って、小学生が内容もよく分からない本を取り寄せてまで読みたいとまでは思わなかった。間もなく三宮に出かけた際にジュンク堂書店で『ぼくの採点表IV 1980年代篇』を発見した。
 有名作は当然として、全く聞いたことすら無い作品も含めて五十音順に列挙されているその膨大な本数にまず圧倒された。各作品に星による評価と粗筋、短評が加えられているのだが、これが面白い。如何に面白いかは、実際に本書を手に取れば分かると小林信彦も書いているのでこれ以上は書かないが、兎に角、この真似をしようと即座に思うほどのモノだった。それからノートに『ぼくの採点表』を参考に劇場、テレビ、ビデオで観た映画の感想を星付きで書くようになった。双葉十三郎は『ダイ・ハード』を☆☆☆★★★にしているが、自分は☆☆☆☆だ。むしろ『ダイ・ハード2』が☆☆☆★★★だ。などと言いながら。
 その後、神戸の元町の海文堂書店で『ぼくの採点表I 1940・1950年代篇』を見つけ、三宮のサンパルにあったジュンク堂書店ブックセンターで『ぼくの採点表II 1960年代篇』『ぼくの採点表III 1970年代篇』を発見したという、今となってはどこの本屋で何を買ったかなんて、買った直後から忘れて行くようなことを、発見した時の喜びと共に鮮明に記憶している。
 中学生の頃と言えば、ビデオで名作と呼ばれるものを観ていこうという時期だったが、そのガイドとして『ぼくの採点表』があったことは良かったと思っている。深夜に放送される聞いたことが無い洋画も、日本公開された作品だったら大半は載っていたお陰で、パラパラと各巻を繰りながら探し出し、評を読んで観るかどうか決めていた。それも星が多いから観るというだけではなく、あまりにも評価が低いから逆に観たことも多かった。それは双葉十三郎が啓蒙的な批評家ではなかったということも大きいのだろう。星の少ないB級映画も観たいと思わせてくれる文章だったし、双葉十三郎が貶していようが自分が観て面白かったらそれで良いと思わせてくれる敷居の低さが魅力だった。それこそ蓮實重彦が未だに恨みとして頻繁に語る『大砂塵』の低い評価すらも自分は嫌では無かった。むしろ双葉十三郎が駄目と言うなら観たいとすら思った。
 双葉十三郎が現役の映画批評家だったことの意味は大きい。単行本の『ぼくの採点表』を読み始める一方で、『スクリーン』を開けば同名の連載が続いていたのだ(実際、この連載を読む為に定期購読映画ファン雑誌を『ロードショー』から『スクリーン』に切り替えた)。だから例えば、中学生の時に学校をサボって『ラスト・オブ・モヒカン』と『シティ・ハンター』の2本立てなんてものを観た後で『スクリーン』を開くと双葉先生はちゃんとこの2本の短評を書いていたし、毎月何を観るかをここから選んでいたのだ。
 やがて、双葉十三郎は採点表だけの人ではないことが分かってきた。そのきっかけは、トパーズプレスが採点表に続いて出版した『日本映画批判』だ。これは戦前から、昭和30年頃までに書かれた日本映画の批評をまとめたものだが、圧巻は『映画芸術』に連載されていた「日本映画月評」だ。これは、昭和23年から昭和25年にかけて毎月公開される日本映画全作を批評するというもので、小津、黒澤、成瀬、溝口、新進の市川崑らも登場すれば今やCSでもお目にかかれない聞いたことがないようなC級映画まで全て均等に取り上げて批評するのだが、その筆鋒の鋭さは京都方面から脅迫されるほどだった。巨匠も新人も出来が悪いものはボロクソにけなされてしまう。こんなのつまんないに決まっているのに、よくもまあ律儀に観ていたことだと思わせられる作品も多いのだが、毎月ひたすら観て批判していく。つまり、今で言うところの『映画秘宝』の「日本映画縛り首」だ。
 晩年は、文春新書で次々と新刊を出版していたが、新作を批評する現役映画批評家としては2000年代の前半に『ぼくの採点表』の連載が中断した段階で一区切りついたと考えて良いだろう。その意味では、自分は現役映画批評家双葉十三郎を10年ほどしか知らないことになるが、映画を意識して見始めた時期にこの批評に出会えたことは幸福だったと思っている。
 その後、映画ノートに書いていた双葉十三郎採点方式の借用はブログに移行しても続けているが、これはもう、映画を観続ける限り、この方式は借用し続けることになるだろう。
 双葉十三郎先生のご冥福をお祈りします。 

ぼくの採点表―西洋シネマ大系 (1)

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日本映画批判―一九三二-一九五六

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映画の学校 (1973年)

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