書籍 「黒沢清の映画術」

9)「黒沢清の映画術」 黒沢清 (新潮社)

黒沢清の映画術
 「映像のカリスマ」の増補改訂版が今夏発売というのは、キー坊周辺のサイトやブログでは散々語られているので、「映像のカリスマ」を持っている身としては買うべきか否か判断に迷うところだったので、書店に並ぶ本書を手にとって中身を眺めると、ロングインタビューで全作が語られているだけなので、増補改訂版どころか全く違うではないかと思って購入したが、これは自分がよくその周辺情報を読んでいなかった為の勘違いで、「黒沢清の映画術」は「映像のカリスマ」の増補改訂版とは別物で、そちらは来月後半に発売されるとのこと。
 では、「黒沢清の映画術」は買う必要がなかったのかと言えばそんなことは全く無い。むしろ、かなり面白そうだと胸膨らむ内容に思えた。黒沢清の自主映画時代から1作1作への言及も当然面白いが、個人的には本書が優れた伊丹十三論になっていることに驚いた。
 当然ながら、それは「スィートホーム」をめぐる対話の中で語られるのだが、「映像のカリスマ」や以降のインタビュー等では僅かにしか語られなかった、はっきり言えば裁判中という問題が大きかったり、伊丹の死という問題が大きかったのだろうが、伊丹の死から十年を経たからこそ語られたであろう黒沢清伊丹十三をどう捉えているかが明快に語られている。

『伊丹さんはとにかくオチをつけるカットを欲しがる人でした。』
『「マルサの女」と「マルサの女2」の間で、大きく変貌している』
『明らかに伊丹さん自身、どんどんシニカルになっていきました。どこかに自分の映画を褒める人間はみんなバカだという軽蔑があり、どんなに褒められても、お金が儲かっても嬉しくない。虚ろな印象がどんどん強くなってゆきました。中では「タンポポ」は作家伊丹十三として自分の本質を出したという印象があり、かなり批判はされたものの、これで清々したという作品でしたね。これは誰もわからないだろうけどそれでいいんだ、という余裕がまだあったんです。』
『蓮實さんと伊丹さんと僕、あるいは何人かの関わった人たちの間に、ある時何かがふっと訪れて、問題を解決してくれるんじゃないかと思っていたんです。』
『「スィートホーム」以降は裁判でしか会わなくなりました。で、伊丹さんの映画は相変わらず大ヒットしているんですけど、人相が変わっていて、どんどん陰鬱な顔になるんです。』
『たしか裁判官だったと思いますが、伊丹さんに「このような争いになっているけれども、黒沢という人間に才能があると思って監督に抜擢したんですね」と訊いたんです。(中略)ものすごく不愉快そうな表情で、「ええ、黒沢君にはきっと才能があるんじゃないですか」と吐き捨てるように言ったんです。』
『僕を含めて、蓮實さんがいたから映画を撮り始めた人が大勢いるわけです。その代表格が、伊丹さんです。誰かそろそろ、きちんとした伊丹十三の歴史的再評価をするべきだと思います。もちろん、何らかの欠点はあるとはいえ、冷静にきちんと功罪を評価し直すべき人です。しかし、僕がやろうとすると、必ずこの問題にぶち当たってしまう(後略)』

 引用の度が過ぎたようだ。しかし、伊丹十三を論じる最適な人物が黒沢清であることは、「お葬式」や「タンポポ」に寄せた批評からして分かっていたことだが、後期の墜落飛行を続ける伊丹映画に関してまで語ることができるのは、黒沢清だと確信させられた。その最も適したニンゲンと、不幸な関係を持ってしまった為にそれが実現しないことは、現在忘れ去られていく一方の伊丹映画の最大の不幸だと思う。
 又、蓮實重彦伊丹十三黒沢清の三本柱を無視しては伊丹映画を語ることができないのだと、改めて思い知らされた。
 蓮實重彦の伊丹映画全否定(そればかりか血族的に伊丹万作に対しても否定的である)と黒沢清とのトラブルの影響が大きいのだろう、周防正行塩田明彦を除いて、青山真治中原昌也に至るまで、伊丹十三全否定を掲げるヒトは多い。唯一、塩田明彦は伊丹映画の再評価や「カナリア」に伊丹の長男、池内万作を起用するなど、蓮實・黒沢一派とは異なる道を歩んでいるように思える。
 伊丹の自死以前に死去した伊丹映画のプロデューサーを長らく勤めた細越省吾は、見舞った桂千穂に「S・Hさんの批評から映画オタクは育っても映画のプロは育たないな」と語ったという。これが正しいかどうかは諸々意見があるところだろうが、黒沢清と伊丹の関係の不幸さを象徴的に物語っているのではないだろうか。
 「黒沢清の映画術」は、伊丹十三のみについて語られているわけではなく、幅広く黒沢清の作品を自ら語った興味深い本になっているようなので読むのが楽しみだが、「映像のカリスマ」の増補改訂版共々、黒沢清から伊丹十三にまで思いを馳せたい。
 二人の蜜月関係期の幸福なエピソードを思い返す。それこそ「お葬式」の劇中のCM撮影シーンで嬉々として助監督役を演じる黒沢清や(因みに四方田犬彦が「お葬式」の助監督を黒沢清が勤めたと書いてあるのは間違い)、伊丹夫婦が出演するマヨネーズのCM監督を伊丹が推薦して黒沢清に任せていたり、伊丹の初期三作については黒沢にラッシュを見せては意見を請うたり、黒沢が自発的に「お葬式」の批評を書いて伊丹に渡したところ伊丹が大喜びし、この文章のためだけにでも「お葬式」を作った甲斐があったとまで言わせていた時期がその後も続いていれば、伊丹十三黒沢清も、その後の監督人生が随分変わったものになっていたのではないかと思えてならない。
 昔から言われていたトラブルの一端に、黒沢が引きで撮ろうとすると、伊丹が寄りを要求するという、あまりにも黒沢清伊丹十三の作風を端的に現し過ぎているエピソードは笑うしかなかったが、本書でも改めて語られているそのエピソードに、いつまでも笑っていられないと思った。ロングだと主張する監督と、寄れと主張するプロデューサーの現場の対立は、大ヒットを続けた伊丹映画と、興行的には大きな恩恵を受けることが無いものの、撮り続けている黒沢作品との絶対的な溝として深く裂け目が続いている。引くか寄るかの違い。伊丹も黒沢も好きな身にとっては、この違いをどう受け止めれば良いのか。