映画 『放飼(HANASHI★GUY)』『ピピンポップ』『昼顔海岸』『因果の手』『マリコ三十騎』

The Possibility of 8mm film 日本凱旋上映

 何かと話題の真利子哲也の作品は、『ほぞ』しか観た事がなかったので、今回ようやく『マリコ三十騎』が観れるというので、イメージフォーラムシネマテークへ向かった。本当は全部観たかったのに、こっちの都合や体調不良を引き起こして前後の作品を観損ねたのは辛いところで、残念だったが、とりあえず『マリコ三十騎』は観ることができて幸いだった。今更と言われ様が、心底驚き、深い感銘を受けた。しかし、このプログラムは真利子哲也自身によって組まれているので、やはり全部観たかったと返す返すも残念だ。
 観た作品は下記の如くだが、評点をつけていない作品は評価していないのではなく、作品の特性上安易に良い悪いと言いたくなかったので避けた。ただ、『因果の手』と『マリコ三十騎』は、その手法、表現にこちらの思うところと合致する部分があったので付けた。

291)『放飼』〔HANASHI★GUY〕  (イメージフォーラムシネマテーク) 

2001年 日本 カラー スタンダード 7分
監督/武藤浩志

292)『ピピンポップ』  (イメージフォーラムシネマテーク) 

1999年 日本 カラー スタンダード 3分
監督/コタキマナブ

293)『昼顔海岸』  (イメージフォーラムシネマテーク) 

2001年 日本 カラー スタンダード 3分
監督/武藤浩志

294)『因果の手』  (イメージフォーラムシネマテーク) ☆☆☆★ 

2003年 日本 カラー スタンダード 12分
監督/武藤浩志

295)『マリコ三十騎』  (イメージフォーラムシネマテーク) ☆☆☆☆ 

2004年 日本 カラー スタンダード 24分
監督/真利子哲也

 今更何を言っていると言われるだろうが、真利子哲也という凄い監督の才に圧倒された。
 名前自体は以前よりよく耳にし、独特な風貌なので、どこかの上映会場でも何度か見かけたし、松江監督がブログ上で随分推しているのも頻繁に目にし、実際自分の友人も『極東のマンション』だったかを観た後に、随分興奮していたりしたので、見なければと思いつつ、何度も観る機会はあった筈だが、全て逃してきた。僅かに観た真利子作品は、『セルフドキュメンタリーの逆襲 「日常を破壊するカメラ」』の枠で観た『ほぞ』が初めて観た作品だったが、自分は全く評価しなかった。単なる過剰なる自意識の発露でしかなく、大嫌いな種類の作品だと思ったが、ただ、あの作品は確か最初期の作品の筈で、自主制作の、しかも初めて作った作品だけで決め付けるようなことをする奴は馬鹿でしかないので、『ほぞ』の悪印象は忘れることにしていた。しかし、今は観返したい思いに駆られている。それも全て『マリコ三十騎』が凄い傑作だったからだ。これは数年に一度の才能ではないかと思った。
 独特のドスの効いた自身のナレーションからして印象深いが、本気なのかふざけているのか判然としないような「〜ではないでしょうか」という問いかけに引き込まれていく。
 自身の母校の新館と旧館をパンして見せるショットの反復からして凄い。ナレーションと、そこで見せるべき画と、更にそこに入れ込む情報、または画面から排除する情報を、どれぐらい計算しているのか知らないが、完璧なまでに出来ている。だから、緊張感に満ちた一種崇高なまでの画面が眼前に展開していることになり、呆然として画面を見詰めるしかなかった。次の瞬間に校舎に突入して行く、荒々しいハンディの画の凄さは、カメラの暴力性を久々に感じさせるものだった。
 母親の狂気的笑い声など、普通ならちょっと鼻について、計算臭への拒否感を抱きそうなものなのに、適確なシークエンスの演出として見入ってしまうし、そこに「劇映画」へと接近していくものを感じた。それは、続く海岸で褌姿の男達が海面から姿を現し、砂浜へと上陸していく映画史に残る凄いシークエンスを観ていてもその思いを新たにした。実際、海面から男達が現れた時には自分は鳥肌が立った。ここでも適確なショットで緊密に構成され、素晴らしいスペクタクル演出が行われている。真利子哲也に数十億渡して、合戦シーンのある映画を撮ってもらいたいという思いを持たずにはいられなかった。はっきり言って、このシークエンスは、黒澤明の『影武者』などとは比較にならない凄さで、遥かに凌駕していると断言できる。
 平野勝之の『狂った触角』『砂山銀座』『愛の街角2丁目3番地』を観た後の高揚と疲労と茫然自失したりした記憶が甦ったりしたが、現在において、こういう映画作家が存在することを見過ごしていたことへ、後悔を抱かずにはいられなかった。
 コマ撮りなど、実験映画のデフォルト表現も多用されているが、真利子哲也の場合は全て必然を持って使用されている。何故このシークエンスを、この表現を使用しなければならないか、何故コマ撮りで歩行シーンを撮らなければならないか、明快である。
 それにしても、祖先の墓の前に立って、キムチ食って吐いたりする映画もあれば、本作のように褌一枚になったりするなんてのは、ドキュメンタリー作家の自意識の発露の表現としても、一歩間違えれば作品全体を破壊しかねないキワキワの表現だと思えるだけに、こういうシークエンスに直面すると、観ていてヒヤヒヤするのだが、優れた作り手は、そこでバランスを崩すことなく、むしろ作品中屈指の凄いシーンに仕立て上げてしまうことに驚きつつ、何故それが可能なのかと思わずにはいられない。
 優れたドキュメンタリー作家に、じゃあ劇映画をと言うのは失礼だが、真利子哲也に関しては劇映画も観たい、またその素質が相当あるのではないかと思えてしまうが、何本か撮っている模様だが、そう評判は芳しくないらしいが、でも観たい。
 今更ながら、これは凄い作家だから追わなければならないと思った。