『こおろぎ』(☆☆☆★★)

爆音映画祭2009
(115)『こおろぎ』
☆☆☆★★ 吉祥寺バウスシアター
監督/青山真治  脚本/岩松了  脚色/青山真治  出演/鈴木京香 山崎努 安藤政信 伊藤歩
2006年 日本 カラー 102分


 21時30分からの上映だったが、昼ごろに一度整理券を取りに来たのだが、その時で既に80番台後半だった。一体、平日の昼間からどれだけ暇な奴が多いのかと呆れる。まあ、世間様から見れば、わざわざ整理券を取りに平日の昼間に吉祥寺でウロウロしているこっちも同じ部類なのだろうが。そんなことになっているものだから、開場前のバウスシアターはとんでもない人の多さで、立ち見券やらキャンセル待ちチケット30数番なんてのがやり取りされていて驚く。こう言っては青山監督に申し訳ないが、そこまでして観るような映画ではないのでは?などと思いつつも、こちらは無事席を確保し、爆音『こおろぎ』の上映を待ちながら、ようやく観ることができると安堵した。何せ、東京国際映画祭日仏学院での上映を逃した時には、まさか一般公開がこんなにも未定のままお蔵入り状態が続くとは思っていなかっただけに。
 作品の解釈については青山真治監督作品なのだから、お馴染みの方々が解説してくださるだろう。自分も、たむらまさきの撮影による素晴らしいショットを書き連ねていきたいという思いにも駆られる。
 しかし、ここは強引に自分の側に引き寄せた上で面白かった部分を幾つか書いておこう。この作品を観ている間、自分が強烈に意識させられた映画監督がいる。小津でもストローブ=ユイレでもなく、伊丹十三だ。
 本作の舞台は伊豆の安良里だが、木造の別荘に暮らす鈴木京香山崎努の姿が映し出された時、『お葬式』の山崎努が歳老いた姿なのではないかと思った。『お葬式』が同じく伊豆の伊丹の実際の別荘(初期には住居として使用)で撮影されており、その造りが本作の別荘と酷似しているという点からの連想で、更に言えば山崎がバルコニーで倒れるシーンでも、『お葬式』の奥村公延が同じくバルコニーで倒れて不帰の人となり、そこから映画が動き始める。
 それだけではなく、本作の“食”が伊丹を思わせたのだ。本作では実に豊かな“食”のシーンが幾度も展開する。山崎努鈴木京香がバリバリとチキンを口に入れ手が油まみれになる姿をバストサイズで捉えて切り返しで見せるショットに静かな猥雑さが漂うが、現在の日本映画で“食”に性的な興奮を観る者に与える映画作家を伊丹の没後以降、松江哲明と本作の青山真治以外に知らない。
 伊丹十三は食の映画作家だった。『タンポポ』という食そのものの映画を撮ったからだけでも、『スーパーの女』という食材の映画を撮ったからだけでもない。『お葬式』の冒頭で間もなく唐突な死を迎えようとする宮本信子の父が健康診断の結果が良好だったからと、鰻にアボカド、ロースハムを買ってきて食するシーンでのそれらの包みを解く手元のアップから、伊丹の食の映画作家としての道が始まった。通夜の席で用意する寿司の量、参列者に振る舞う弁当など、会話の中に登場するものも含めて多彩な食が展開するこの作品に続いて先述した『タンポポ』へ至り、続く『マルサの女』では脱税していた個人経営の食材店を店内のロケセットが魅力的ではないという理由で、食材のアップをモンタージュするだけで食材店の全景を見せないまま押し切ってしまったり、『マルサの女2』での蟹を実に薄汚く食す政治家たちのシーンなど、伊丹映画の食を挙げていくと映画そのものであることに気付かされる。
 本作で山崎努がハムエッグを口だけで啜り、口元が黄色く染まるショットに『マルサの女2』で査察が入った急報を受けた三國連太郎が慌ててハムエッグを啜るショットを想起し、鈴木京香の指を咥える山崎に、『タンポポ』で洞口依子の手に広げられた牡蠣を役所広司が口を寄せて啜るショット以来の艶めかしさを感じたりと、どうにも本作の“食”には過去の伊丹作品が次々と浮かんできてしまう。
 青山真治伊丹十三を実際に意識したのかどうかは分からないが、2006年08月05日にアテネ・フランセで行われた「『黒沢清の映画術』(新潮社)発刊記念 KIYOSHI KUROSAWA EARLY DAYS」蓮實重彦×青山真治×黒沢清の鼎談の席で青山真治は、慎重に二人の前で伊丹十三の名を口にしたことがあった。その時には随分と意外に思ったが、『黒沢清の映画術』が優れた伊丹十三論でもあったことを思えば、伊丹十三再評価を行っているのは、『県庁の星』でも三谷幸喜監督作でもなく、逆説的な意味も含めて周防正行黒沢清青山真治、それに確か伊丹作品について一度言及したことがあった塩田明彦らではないかと思う。
 更に付け加えておけば、細い道を車で走るショットが車の車窓からの主観で捉えられるが、それが『お葬式』終盤の火葬場へと向かう車からの主観と位置的には反対だが容易に想起される形で挿入されていることや、何より本作の撮影が、『タンポポ』で伊丹・山崎と組んだ、たむらまさきであることや、『お葬式』と本作が同じくスタンダードで撮影されていることからそう思わせるのかも知れない。
 本作の山崎努の薄汚い恰好は、1997年12月20日に伊丹が自殺した際の服装がパブリックなイメージとは異なり労務者風の風体だったと言われており、そこからの影響が強いようにも思え、山崎は意識的に伊丹を演じたのではないか。まるで自殺後の伊丹が蘇り、伊豆の別荘へやって来たかのように思えて恐ろしかった。
 などど、勝手に妄想を広げることを許してくれる広がりのある作品だが、通れないトンネルだとか、青山作品のお馴染みの記号も登場するだけに、伊丹だけに拘って観るのは偏狭な観方にすぎないし、あのアイリス・インの使用についても諸々語りたくなる。実際、自分は観終わって一緒に観たヒトと延々と作品の解釈について語り合ったのだが、現在、そういった行為を起こさせる気になるだけの作品がどれだけあることか。そういう意味でも一般公開が待たれる。
 爆音で『こおろぎ』を観るということについても書きたいことがあったが、また機会があれば。