『伊丹十三の映画』

14)『伊丹十三の映画』(「考える人」編集部 ) 新潮社

伊丹十三の映画

伊丹十三の映画

 遂に伊丹映画を読み解く本が出た。伊丹十三生存中は勿論、没後も一切出なかった伊丹映画に関する書物(『「お葬式」日記』『「マルサの女」日記』『「大病人」日記』『大病人の大現場』は除く)も、ここ2,3年で状況が変わってきた。新潮社が、伊丹のエッセイを再版したり、全作DVD化、幻のデビュー作『ゴムデッポウ』の上映、『伊丹十三の本』の出版、黒沢清が『黒沢清の映画術』で愛憎交えた秀逸な伊丹映画論の一端を垣間見せたり、『クイック・ジャパン』誌で草森紳一が連載『記憶のちぎれ雲』の中で伊丹を数回にわたって取り上げたりと、伊丹十三の再評価の流れは確実に感じる。丁度先日、松山に『伊丹十三記念館』もオープンし、テレビマンユニオンが製作した濃密な伊丹のドキュメンタリー番組が放送されたりと、その流れは加速している。しかし、それらの多くは、映画監督になる前の、優れたエッセイスト、テレビマンとしての伊丹の姿を語ったものが殆どで、映画監督・伊丹十三については未だ触れられることがなかった。
 7年ほど前、自分が学校の卒業論文に映画監督・伊丹十三を取り上げようとした時、まず直面したのは、資料の無さだった。スタッフ、キャストのインタビューが纏まった本があれば便利だと思ったが、そんなものは全く無く、公開時の雑誌インタビューを探し出して当たるしかなかった。
 それだけに、『伊丹十三の映画』は、正にこういう本が欲しかったと言いたくなるほど、充実した本に仕上がっている。何せ、スタッフ、キャストのインタビューが驚くほど広く集められている。俳優は、山崎努津川雅彦から、宝田明奥村公延益岡徹、村田雄浩、大地康雄六平直政役所広司ら、多くはないが重要な役者達がそれなりの分量で喋っているし、スタッフ側がもう撮影の前田米造から、編集など主要なパートは当然、助監督座談会もあり、スタイリストからメイクから、振付から通訳やデスクに至るまで各パートが伊丹十三を、伊丹映画を語っているので、実に多様な視点から伊丹十三という監督とその映画が浮かび上がってくる。
 それに、没後十年という歳月のお陰で、単なる伊丹への賞賛だけに終わっていないのが良い。
 山崎努は、何故初期三本だけに主演して(『静かな生活』は出演しているが)以降、数本に一度はオファーを貰いつつも断ったのかを語り(『大病人』はかなり山崎にやって欲しかったようだ)、津川雅彦は伊丹を賞賛しつつ、『大病人』が<脚本の出来の悪さを、演出でカバーしきれなかった/いちばんぬるかった>と話す。
 前田米造は、『マルサの女』のアップ多用と、スタンダードサイズの良好な関係、以降のビスタサイズでの苦労を軽く語っているが、ココこそが、後期伊丹映画のビスタサイズでのアップ多用の問題点が潜んでいる。
 編集の鈴木晄は更に後期伊丹映画の問題点の核心を衝く発言をしている。

伊丹さんはよく「映画は前へ進まなきゃいけない」と言っていましたけどね。/伊丹さんが撮ったものは一カット一カットが全部面白いけど、面白いカットばかりつなげても、映画が面白くならないのが不思議なところ。/伊丹さんは完璧主義だから、どこをどう切っても伊丹組の画になるわけです。/キャスティングの小さなミスや計算違いが生じたときに、編集である程度修正しなければいけなくなる。そのバランス修正を常にするので、結果、あの伊丹調が出てくるわけです。誰が見ても芝居が伊丹組のものになるわけです。ただ、それが何作が続いたので、僕としてはそれを気にして、伊丹さんはいろいろなタッチの作品が作れる監督だし、「静かな生活」ぐらいで、ちょっと変えてみようかなと相談したんです。/あれだけは原作がちゃんとあったものだから、(中略)伊丹さんの言う、「前へ前へ」ではなかった。/伊丹さんも「いいね。いい調子じゃない」と最初は言ってたんだけど、半分ぐらいまで進んでから、それこそ「前へ進まない」とガラっと変えちゃった。/その次の「スーパーの女」では、また「前へ前へ」路線が復活したんです。/伊丹映画の幅を出すためにも、ひとつぐらいテンポがゆっくりとした「前へ!」ではないものを作っても良かったかもしれない

 周防正行は、伊丹映画の構図の作り方が、「お葬式」「タンポポ」と「マルサの女」で明らかに違うことを指摘し、以降の伊丹映画が横幅ではなく奥行きで見せるやり方へと変転していったことを指摘し、更に、

マルサの女」が当たったことは、その後の作品において決定的な意味を持ってしまったと思います。もし「マルサの女」がヒットしなかったら、もう一度「お葬式」や「タンポポ」のような本当に自分が好きな世界―ヒットするとかしないとか関係のない―の映画をお撮りになったかもしれない。「ヒットメーカーとしての伊丹十三」というものを自分の中で規定して、ヒットした上で面白くなきゃいけない、面白い上にヒットしなきゃいけないというような二重の枷を、その後ご自身の中に作ってしまったような気もするんです。

 この発言は、本書には当然登場しないが―本来はもっとも的確に語れる存在である黒沢清も『黒沢清の映画術』で同様の発言をしていたが、蓮實重彦伊丹十三黒沢清周防正行の関係が現在のものと違っていたら、夫々の現在の姿も変わっていただろうか。 

 伊丹十三が準備していた次回作についての証言も幾つか載っている。六平直政は、直ぐに撮れる台本が4、5本あると聞いていたので、池内万作に会った時に、「君が撮ればいいのに」と言ったことを明かし、プロデューサーの川崎隆は、犯罪映画を構想していたと証言する。警察関係者への取材も進めていたという。編集者の新井信は、伊丹が亡くなる一月前に、警視庁の銃器対策の幹部に、<ロシアや中国製のトカレフが、どういう経緯で密輸されるのかという話>を、<かなり細かいところまで聞いていました>と語る。
 
 本書は、伊丹十三という映画監督を、初めてスタッフ、キャストから本音に近い部分をも引き出した画期的書物になっており、伊丹十三研究の上で欠かせない、最良のものになっていると思う。
 本書を片手に再びDVDで伊丹映画を観なおしていくことになると思う。