『したくないことはしない 植草甚一の青春』 津野海太郎(新潮社)

したくないことはしない

したくないことはしない

 著者は植草甚一の晩年の十数年を編集者としてつきあっている。従って本書はその十数年を中心に著者が直接見た、聞いた、植草甚一の実像を描いているのではないか、副題の“植草甚一の青春”とは植草に訪れた晩年の青春を指しているのではないか、という最初の予想は直ぐに裏切られる。晩年についての記述は巻末のごくわずか、全体の1/3にも満たない量しか書かれていない。ではどこに主軸が置かれているかと言えば、文字通りの青春期だ。本文を引用して言えば〈植草甚一の青年期は、一九二三年(大正十二年)の関東大震災と一九四五(昭和二十年)の東京大空襲という二つの大破壊のあいだのほぼ二十年〉が中心となっている。そうなると直ぐに思い出すのが晶文社から出ている植草のスクラップブックシリーズの一冊『植草甚一自伝』だ。自伝と称されてはいるが、そこにはこちらが期待するような少年期を経て映画界入りし、戦中、戦後の映画界事情、批評家たちとの交流などは書かれておらず、日本橋で育った少年期を例の植草文体で脱線に脱線を重ねて書かれている。あまりに脱線を重ねすぎたせいか著者が言うように〈かれの文章、とくに回想的なそれには、けっこうなぞがおおい。(略)話がかんじんな箇所にさしかかるとスルリと横にそれ、それ以上、やぼな説明をやめてしまう〉ということになってしまう。そこで著者は序文で本書執筆のきっかけを、そして何故自身が直接知る時代ではなく少年期、青年期に求めたかを〈それらの穴のすべてとはいわずとも、なかのいくつかを、具体的に、それこそやぼったく埋めてゆけば六〇年代から七〇年代にかけての東京の街で若い人々を魅了した「ふしぎな老人」の正体が、いくらかハッキリしてくるかもしれない。」〉と思うにいたったと説明する。
 しかし、だからと言って、しつこくネチネチと知られざる植草甚一を描き出そうと言う気は著者にはまったくない。これまでの植草の発言を拾い出し、生誕地に足を運んだり、その地区の図書館に足を運んだりして当時の植草が置かれていた環境を想像するものの、具体的な裏付けはほとんど取らず、推理に終始する。実際著者も〈本来であれば、以上の推理をたしかめるべく、役所をたずねたり古老の話をきいたりのフィールドワークにはげむべきなのだろうが、残念ながらそこまでの根気はいまの私にはない。〉とぶっちゃけてしまっている。インターネットでの検索に頼りすぎたり、他の書物からの孫引きで示される箇所が多すぎたりと、本来ならば欠点になりそうなものだが、本書ではその表層部分の滑走が植草甚一的な読み心地の良さの継承となっていて飽きさせない。植草だって膨大な知識と書物を有していたが、引用と深入りしそうでしない文章が独特のリズムを形成して魅了させた。それが真実かどうかはどうでもいい。著者による強引な想像、思い違いも多いに違いないが、活き活きと植草甚一が幻影の帝都を歩く姿が浮かび上がってくる。生誕百年、没後三十年を経て、植草甚一の伝説化が進み始めていた時期に登場した本書は、現在の新たな読者と植草を繋げる絶妙の副読本であり、それを担当編集者だった著者が記したことの意味は大きい。


(2009.01.03 読了)