『幽閉者 テロリスト』『007 カジノ・ロワイヤル』

22)『幽閉者 テロリスト』 (ユーロスペース) ☆☆☆

2006年 日本 カラー ビスタ 113分
監督/足立正生    脚本/足立正生    出演/田口トモロヲ PANTA 大久保鷹 梶原譲二 ARATA 山本浩司 柄本時生 比嘉愛未 流山児祥 葉月螢 若松孝二 松田政男 平岡正明 松島利行 渚ようこ 秋山祐徳太子 四方田犬彦 瀬々敬久 伊藤清美 荻野目慶子
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD10050/26.asx:movie=wmp
 このブログを始めてから、やたらと足立正生を連呼してきたなと思う。平均すれば19日に一度は足立正生と言っているらしく、我ながらヘンだと思う。
 大体、そこまで連呼している割に作品への評価は低いのだ。
 ソフト化されていない作品が多いから、ざっとメモ書き程度に書いておくと、

  • 『堕胎』 ☆☆
 足立正生商業映画デビュー作。クレジットは若松孝二との共同監督となっているが、これは営業向けのクレジット。
 人工胎盤をモチーフにしたマッドサイエンティストもので、この時代に人工胎盤を持ち出してくる先見性には驚くが、作品としては若松孝二とは比較にならない程、各描写は下手糞。
 開巻は丸木戸定男の牢獄からの独白で始まる。妻と共に営む産婦人科へ来た、若さゆえの過ちで妊娠した為に驚き悲しむ少女に妻が妊娠のメカニズム、生命の神秘、素晴らしさを説くという性教育映画のパロディとして見せるのか、かなり面白い。更にそこへ丸木戸博士が、妊娠なんてそんな生易しいもんじゃねーぞ!と暴言吐いて唐突に登場するのには、大爆笑させられた。
 丸木戸博士は自身の研究により、遂に人工胎盤を完成させ、妊娠中の患者の胎内から胎児を奪い去り、人工胎盤に移し変えてしまう。異変に気付いた妻の通報により、丸木戸博士の研究は闇に葬り去られる。
 ラストの妻の告発が随分性急過ぎるとか、問題はあるが、コメディとして再評価されるべき作品だと思う。

  • 『避妊革命』 ☆
      
 丸木戸定男シリーズ第二弾。今回より監督名は、足立の単独クレジットになる。前作との繋がりはないが、まあ、好意的に出所した丸木戸博士が再婚して性生活相談所を開設したと考えても良い。
 今回は、究極の避妊具、マルキードを発明したという展開。人工胎盤の衝撃からすれば、避妊具ではインパクトに欠けるし、実映画としても後退している。
 丸木戸が山谷初男演じる発明家の元へマルキードの共同開発を持ちかけるまでは面白い。ただ、その後のハッポンさんが厚生省の認可を待たずに私利私欲に走り、勝手に訪問販売を繰り広げた為に認可が下りなかったというのを一気にナレーションでオチまで持っていってしまうのは感心しなかった。

  • 『性地帯 セックスゾーン』 ☆★★★
 『堕胎』や『避妊革命』に比べて、驚くくらい演出が向上している。カメラが適確な位置に来て、ショットも過不足なく撮られている。
 20万円を使い込んで山間の温泉町に逃げてきた丸木戸定男(今回は『胎児が密猟する時』同様山谷初男が演じている)が、女と首を吊ろうとするも失敗し、薬で死のうとするも女が胃薬と差し換えた為に死に切れず、逆に女に馬鹿にされる。カッとなった丸木戸は女を殺し、町へ逃げていく。丸木戸は宿の番頭へと姿を変え、温泉町の女と寝る日々を送る。
 花電車芸を披露する女のカットバックやショットの選択の見事さや、ラストまで破綻なく展開させる巧みさに、感心しつつ、逆に丸木戸定男シリーズとしての破綻を求めてしまい不満に感じもするが、見事なピンク映画に仕上がっている。
 ラストの丸木戸と入れ違いに温泉町にやってくる松田政男(本作のスクリプターも担当)と擦れ違うショットも素晴らしい。

  • 『性遊戯』 ☆☆
 足立の劇映画では唯一学生闘争を描いた作品。
  開巻から延々と一室を舞台にしたフリーセックスが描かれるが、彼らは皆ノンポリで、『性賊 SEXJACK』を事前に観ていると、当然もっと学生闘争へ肩入れしたものになっているとばかり思っていたが、かなりクールに、引いた、揶揄するような視点さえ混じっているのが興味深い。
 カメラは闘争華やかりし頃の日大に入り込む。日大出身の足立だけに、騒乱の最中にカメラを持ち込んだ映像に引き込まれる。バリケードで堅固にガードされ、荒れ果てた日大構内の描写が凄い。
 主人公たちは、三派のリーダー格の女子生徒を日大内で強姦する。その後、女の家に主人公たちが行くと、彼女の兄は爆弾作りに精を出している。彼女は内ゲバの性行為で妊娠したので、三派の学生達は父を決める儀式を行う。
 『性地帯 セックスゾーン』に続いて製作された作品ながら、一転、脚本も演出もかなり即興っぽいのが、足立正生という映画作家を考える上で興味深い。
 映画としては纏まりに欠け、政治要素も期待した程濃くないので、さほど面白がれないが、この作品が決定的に魅力なのは、ラストの新宿の交差点で、ドイツ軍の軍服を着た主人公と女たちが横断歩道の真ん中でキスをする様子をロングの俯瞰で捉え、続いて、国会議事堂の前で行進するというショットが素晴らしいからだ。そして彼らが進む先には皇居が見えるのである。このいラストシークエンスで、『性遊戯』は忘れえぬ作品になった。

  • 『銀河系』 ☆
     
蠍座オープニング作品として製作された実験映画。
  首絞め、男を殺してから外に飛び出すと殺した男が立っている、坊主との対決、螺旋階段、足を引きずる男、といった要素や幾つかのカットでの才気溢れる様など、見るべき箇所は多いが、一度観た限りでは、俗っぽい作りなので、底の浅さが残念だった。殊にクライマックスが妖術使いの坊さんとの対決に収束してしまうのは、安っぽくて疑問だった。

  • 『女学生ゲリラ』 ☆☆☆★
 恐らく現在に通じる唯一の作品ではないか。あさま山荘事件への予感に満ちた作品という捉え方もされているが、『ぼくらの七日間戦争』のオリジナルとして、爽やかな青春映画としての魅力にも溢れている。

  • 『叛女・夢幻地獄』 ☆☆
 『性地帯 セックスゾーン』同様、職人技術で実にマットウな商品に仕上げてあって、ピンク映画の枠組みで如何に足立正生がしっかりした商品を作れる才を持っていたかが伺える。足立の非若松プロピンク映画第1作で、国映が母体となって製作している。しかし、スタッフはこれまでと同様。
 大和屋竺のベスト演技は本作によって成されている。あのクネクネした動きは忘れ難い。
 演出、ショットの適確さに、ひたすら感心して見入っていた。

  • 『噴出祈願 15歳の売春婦』 ☆☆
 悲しみに満ち満ちた作品で、これを最後に以降35年間足立は劇映画を撮っていない。
 闘争の終焉の時代、大島渚を始め様々なジャンルで死が付き纏っていた時代に相応しい、足立正生の映画の死を予感させる作品になっている。
 本作には同じく若い男女を主題にした『性遊戯』『女学生ゲリラ』の系譜として考えられるのだろうが、前二作にあったような政治性は皆無で、淡々とした青春映画として心を打つ。足立正生もこんな映画を作るのかと感心しつつ観ていたが、むしろ本作こそが、足立が本来持ち合わせているものが忠実に出ているのかもしれない。

 と言うような印象を初見時に思ったが、再見するとまた変わってくると思うので、特集上映されないなら、是非DVDBOXで出して欲しい。従って、無闇に足立正生を才気溢れる天才監督だとも、巧いとも思っていない。35年ぶりの新作だからと言って、過大評価する気は全くない。ハナからそう巧い監督でもないのだから。

 Q-AXビル近くまで来て、ハタと足が止まったのは、その前にアホのオマワリが3人たむろしていたからで、一瞬不穏な様子を感じたが、一応円山町警らで偶々前を通っていたという形のようである。そー言えば、ネイキッドロフト足立正生トークイベントに行ったら、いつの間にか道にパトカーが横付けしてあった。ま、これも偶々である。
 ユーロスペースは、大きい方の劇場(145席)で『幽閉者』を上映したが、平日の真昼間に行ったとは言え、10人ほどしか客が居なかったが大丈夫だろうか?

 足立正生の前作を、どの作品と位置づけるかは難しい。劇映画ということなら『噴出祈願 15歳の売春婦』だし、その後も共同で『略称・連続射殺魔』や『赤軍−PFLP 世界戦争宣言』に携わっているので、それらの作品を足立の監督作品と書いているものもあるが、混乱するので避けるべきだろう。
 本作が実現するまでにも足立の新作の動きは幾つか見られた。足立の日本への帰還は2000年で、当時、若松孝二足立正生獄中監督構想というものを語っていた。後の若松の言葉では、瀬々敬久に共同監督を依頼する予定だったという。結局、足立の出所が予想以上に早かった為にこの構想は中止となった。又、足立の出所と同時に足立を主人公にした作品が撮影に入っている。村上賢司監督も協力したこの作品は、『噴出祈願 15歳の売春婦』の主演女優が監督するというものだったらしいが、その後進展を聞かず、以前村上監督に、この作品についてのコメントを書いていただいたことがある(→http://d.hatena.ne.jp/molmot/20060620#c1150897208)。この作品について足立は、

強制送還されて日本の刑務所に着いた途端、私を主人公にして映画を撮りたいという人がいて。私が撮ったピンク映画の主役なんだけど、彼女はヒッピーからボヘミアン主義になってインドに4年行って、それからユダヤ人たちが離散していた民族を集めてイスラエルという国をつくったのは素晴らしいと考える人で。近代史の認識が全然、逆ですから。で、共同制作にしたいというので1年ぐらいシナリオ会議をやったんだけど、全部、話がすれ違うんだよね
STUDIO VOICE VOL.374』
と述べており、実現しなかったのも致し方ないとは言え、足立の出所映像というのは、観たかった。
 2004年頃には、アップリンクでワークショップを行うなど、新作へ向けての動きはあったものの具体化する気配はなかった。一般に聞こえてきたのは、三年ほど前に『十三月』を翌年インさせるというハナシが出始めてからで、事務所開きなど、かなり具体化していたようだが、若松監督曰く、周りに居るのが素人ばかりだからとても無理という状況だったようで、事実、凍結の憂き目に遭っている。その直後にかなりの速さで代わりの企画として『幽閉者』が立ち上がったように、観客からは見える。しかし、真魚八重子さん(←キーワード化されてやんの)によると(http://d.hatena.ne.jp/anutpanna/20070205#c1170677455)、何年か前から企画は動いていたらしいので、両天状態だったのだろうか。『十三月』と『幽閉者』では内容は全く異なるが、『幽閉者』以前にはプロデューサーからオーギュスト・ブランキの『天体による永遠』の映画化というハナシもあったらしく、これが形を変えて『幽閉者 テロリスト』として完成したのだと言うのでその辺りか。(※修正  コメント欄にあるように、八重子さんが読んだのは、『十三月』とのこと)
 次回作の『なりすまし』や、既に脚本は発表済みの嘗ての企画『ロトを殺した二人の息子』や『ニャロメのチャップリン』も含めて、足立正生の新作への動きは進んでいるだけに、『幽閉者 テロリスト』の興行的成功を願う気持ちは強い。

 肝心の本編だが、紛れも無い足立正生の作品だった。35年の空白は微塵も感じさせない。
 尚、本作が足立正生にとって、劇映画では初のオールカラー、又、80分以上の作品というのも初めてである。勿論ピンク映画の場合は尺の制限があったわけだが、何故今回、それまで経験のなかった、113分という劇映画の商品としては到ってありふれた、“適正尺”に足立が従ったのか、という疑問が浮かんだ。
 ファーストカットは林檎林の下でアラブ式挨拶の抱擁している様を俯瞰で捉える。既にセット丸出しな空間だが、もうここから、ここではない世界が広がっている。
 空港に到着した男達の行動は、ロッド空港襲撃事件のそれをなぞる形で描かれる。この段階で興奮させられるのは、牢内だけで展開しても何の不思議もないこの作品でも、活劇であろうとする意欲を感じさせたからだ。
 更に興奮させられるのは、これは撮影の長田勇市に負う部分も多いのだろうが、『性地帯』や『叛女・夢幻地獄』で見せた適確なカット割り、ショットの積み重ねが、40年近くを経た本作でも継続して展開されており、撮影所出身監督の如き熟練の手つきが、逆に低予算作品のチープさにそぐわない思いを抱くが、『盲獣vs一寸法師』や『ソドムの市』と並べて賞賛されるべき、技術不在の現在の若手インディーズ監督に見せたくなるものだった。ただし、銃撃を撃つ側でしか見せない、負傷した撃たれた側の存在を見せないという選択をしているが、そこは批判を浴びる箇所であろうし、都合の良い切り取り方、つまりは本編中で何度か語られる、例の言い訳めいて聞こえる「警備員を撃っただけだ」と言う箇所への違和感は、それは足立の立場からすればそう言うしかないというのは分かるにしても、それならば警備員のみが撃たれるショットをインサートすることはいくら低予算でも可能な筈で、寄りで警備員が蜂の巣になるショットでも良いから入れてほしかった。空港襲撃ということで、足立の脚本ではないが、若松の『テロルの季節』の終盤を思いつつ、このロッド空港襲撃事件の再現を見詰めていた。
 前半で顕著だったセットの狭さをカバーするべく寄りばかりのショットで見せきろうとするのが、観ていて息苦しく、その息苦しさこそ幽閉者たるものの息苦しさを観客に体感させる為のものだとするなら大したものだと思いつつ、ロングショットへの枯渇を抱きながら観ていた。
 裁判の過程を新聞の表記で見せるという手法は、現在ではかなり廃れ気味であるし、殊に真正面でドンと据えて記事を見せるなんてのは、やはり若松映画で御馴染みな見せ方だけに、足立正生は何も変わらず、『噴出祈願 15歳の売春婦』に続く新作を、ひょいと撮ってしまったに違いないんだなと思った。世間の35年ぶりという煽りに騙されて、恰も自分も足立の作品を35年ぶりに観るような顔をしているが、その実、全作上映以来7年ぶりに観るに過ぎないのと同様、足立も何も変わっていない。
 何も変わっていないのは、作品のモチーフからしてそうで、ここではないどこかへ行こうとしても結局元に戻ってしまうという図式は、本作でも中心に据えられている。
 又、この作品が足立正生の総括と、今後の展開を示唆する分岐点的意味合いを持っていることは、観ていても、これまでの集大成的描写が入り込んでいることからも明らかで、それは神父や幻想上での登場人物の存在が、『銀河系』の僧侶を容易に想起させたり、拷問、犬と化すMなどは脚本作『胎児が密猟する時』、Mの少年期の家族との描写は『性家族』、明治・大正・昭和天皇の近影を並べたのは、天皇制を描いた『日本暴行暗黒史 異常者の血』からの流れを感じさせる。  ただ、劇中に少し流れるロック版『インターナショナル』などは『女学生ゲリラ』での、ジャズ風『君が代』へのアンサー曲として好意的に受け止めることができるが、天皇の存在そのものを写真とは言え、劇中に登場させる直接性には首を傾げた。『日本暴行暗黒史 異常者の血』でも天皇なんて一言も口にしないし見せないし、『性賊 SEXJACK』でも本来二重橋を渡るべきにも係わらず、そこは見せない。『天使の恍惚』の前段階での『天使はケチである』、または『天使の爆殺』の脚本を読むと、主人公の若松(若松孝二自身が主人公という刺激的内容だった)はラストには二重橋で爆弾を投げる件が書かれているが、そこは映像化されない。
 若松や足立は、直接的描写は常に避けていたが、最近では、若松にしても『17歳の風景』で、あのつまらない針生一郎の直接的過ぎる自民党批判をそのまま取り込んだりしているし、今回の天皇の近影といい、嘗ての抑制が失われているようで、観ていて疑問だった。
 本作を観ていて、強烈に意識してしまったのは大島渚の『絞死刑』で、勿論足立正生はこの作品の脚本にはクレジットされていない(シナリオ会議には出席した模様だが借りてきた猫状態だったとのこと)が、出演者、予告篇監督として参加している。 共通項を挙げていくと、幽閉された主人公の刑務所内での物語、主人公の名は『絞死刑』ではR、『幽閉者』ではM。
 足立のモチーフである、“ここではないどこかへ”は、『絞死刑』では“どこでもないどこか”として語られる。  刑務所の扉を開き、共に主人公は外へ出ようとする。『絞死刑』では横構図でそれが示され、その先の閃光に外へ出ることはできない。検事にそれが国家であることを教えられる。『幽閉者』では縦構図で扉を開き、こちらも閃光に包まれるが、外へと飛び出す。
 外の道を走るショットでも両者の関係性は伺える。『絞死刑』では斜め構図を主にして、Rを先頭に国家権力従事者達がその後ろを追う。『幽閉者』では真正面からのフルサイズのロングで、Mを先頭に囚人たちが後に続きつつ、四散していく。
 そして、独房に登場する共に“姉さん”と呼ばれる女性の幻影の存在。
 『幽閉者』は、『天使の恍惚』の四季協会のテロを経たMが、死なないまま囚人として幽閉され続ける様を描いた作品と想像しても良いし、死ぬことへの道程を描いた『絞死刑』への足立正生から大島渚への高らかな返歌として考えても良い。
 出演者に大量の文化人を多用したところからしてATG的な雰囲気も漂うが、文士劇、かくし芸大会になりかけるギリギリのところで収まっているのは、撮影、演出の実直さからだろうか。
 それに、田口トモロヲを得たのはやはり大きく、あの年齢で、大島渚今村昌平新藤兼人足立正生の作品に出ているというだけで凄いとしか言い様が無いが、田口自身が意識していたと思しい、60年代と現在を繋ぐ役目を担っていたと思う。演技としては、今村昌平の『おとなしい日本人』での蛇のヴァリエーションだが、やはり良い。又、山本浩司が良くて、この人はかつて、ゆうばりで長谷川和彦に『連合赤軍』の出演をオファーされたらしいが、この面構えはやはり良い。
 拷問シーンの数々には、観ていて痛みを感じない。それが欠点なのか、この作品の構造としてそれで良いのか。ただ、拷問映画としては非常にオーソドックスな作りで、水責め、上からの糞尿の投下など、最近でもAVで事件化したバッキーのうんこ大戦シリーズなどで描かれていた拷問的描写とアングルからして同じショットも幾つかあり、拷問というものに対する共通性を考えさせられた。
 個人的に面白かったのは、前に座っていた男性の観客が、本作のノイズ音が大変不快だったと見えて、もう、本当に七転八倒しているのである。耳を押さえて、座席で悶絶して苦しんでいるのだ。『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』でも上映が始まると観客が数人出て行ったまま帰って来なかったが、まあ、生理的に受け付けないというのはあるだろうし、実際本作のノイズ音はかなり爆音でかかるので、自分も観終わった後少し引きづったし、これから観る方は体調を整えて観た方が良いと思うが、それでも耐えられないという人も居るんだろうから、もう前の人には、あんた外出た方が良いよと言いたかった。それも余りにも分かりやすい苦しみ方なので、スクリーンでは田口トモロヲが苦しみ、目の前では観客が苦しんでいる姿を重ねて目にするハメになり不思議な気持ちになった。流石にその観客には、自分はヒッチコックの『海外特派員』でヴァン・メアが拷問されるシークエンスみたいな直接性が無くとも、痛みが伝わるような描写が好きなんだから、あんたもそーゆー風にやれ、と理不尽な言いがかりをつけたい衝動に駆られた。
 あまり触れられないが、葉月螢と荻野目慶子の存在は忘れ難い。葉月螢はしっかり濡場を演じているし、そこにピンク映画監督、足立正生の存在を感じずにはいられないが、よくこの世代の監督が十数年振りに撮ったりすると、イマドキ嬉しくも無いのにサービスカット的にハダカを出したりすることがあるが、本作では流れの中で自然に収まっていた。それに足立正生×葉月螢というのは非常に興奮させる組み合わせでもあるので、国映で二人のコンビでピンク映画をやらないものかと思った。
 荻野目慶子は、重信房子をモデルにした女性を演じているが、素晴らしい。もっと観ていたいという思いに駆られたが、アップで高らかに仲間達にアジるシーンなど良い。

   作品としては盛り込み過ぎて、その根幹にある主題を見えにくくしているように思え、過剰さを排したシンプルな作りにした方が良かったのではないかと言う気もするが、35年間映画を撮れなかったヒトにそんなことを言うのは野暮なハナシで、映画としての完成度は置くとしても、近年、これだけ明確に自身のビジョン、主義主張を盛り込んだ作品を作り上げるヒトは居ないので、そういう意味ではやはり面白かった。

 因みに、上映環境で一言。毎度ユーロスペースで観る度に文句言ってる風で、好きな劇場だけに(今年に入って既に4回行っている)あまり言いたくないと思いつつ、仕方ない。今回は、プロジェクター上映とは言え、全く問題なく、『海でのはなし。』で消えなかった間接灯も消えて真の暗闇になったので、とても良かった。上映中は。ところが上映が終わっても灯りがつかない。暗いままなのだ。ここは、前から(移転後から)、ちょっと灯りを点けるのが遅いのだが、まあ、そんなに文句を言うほどではなかった。しかし、今回は3分たっても点かないのだ。何かこの後あるのかと思わず待ってしまったぐらいだが、全く灯りが点く気配がないので、仕方なく次の予定もあったことだし、暗闇の中、手探りで歩き出して、案の定、コケそうになった。自分が出て、トイレへ行って戻ってきても未だ灯りはついておらず、どうなっているのかと。エレベーターに乗りかけた頃、灯りがついて観客が出てきていた。まさかビデオ上映だから映写技師は立ち会わなくて良いからと放置していて、上映が終わったことに気付かず放置していたわけではあるまいな、などと思うが、自分の経験上からしても、ちょっと驚くくらい長い間、暗いままで放置されていたので気になった。






23)『007 カジノ・ロワイヤル』〔Casino Royale〕 (品川プリンスシネマ) ☆☆☆★
2005年 アメリカ/イギリス カラー スコープ 144分
監督/マーティン・キャンベル    脚本/ニール・パーヴィス ロバート・ウェイド ポール・ハギス     出演/ダニエル・クレイグ エヴァ・グリーン マッツ・ミケルセン ジュディ・デンチ ジェフリー・ライト
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD8695/26.asx:movie=wmp

 007シリーズは、 リアルタイムで劇場に行こうかと初めて思ったのが『007 消されたライセンス』という世代なので、まあ、テレビ放送で観て、新作がかかったから劇場へ行こうと小学生が思うのはそれぐらいの頃だった。結局、行かずじまいだったので、丁度シリーズ最大の空白期の6年間を経験することになった。ただ、その間にシリーズを一通りビデオで観る事が出来たので、コネリー=ボンドや『女王陛下の007』の良さを堪能できたので良かったのだが。
 ピアース・ブロスナンのボンドは全部劇場で観ているので印象深いが、その出演作4作を好みで言えば、上から『トゥモロー・ネバー・ダイ』『ワールド・イズ・ノット・イナフ』『ゴールデンアイ』『ダイ・アナザー・デイ』という順になる。『トゥモロー・ネバー・ダイ』は119分で纏め上げていて、監督が編集出身のロジャー・スポティスウッドだから何せテンポが良く、それは『ワールド・イズ・ノット・イナフ』にも受け継がれていて、この2作がブロスナン=ボンドの全盛だった。それだけに、『ダイ・アナザー・デイ』の凡庸振りには驚き、リー・タマホリ先生だから、しゃーないのだが、それにしても困った出来だった。
  ピアース・ブロスナンの降板やら、タランティーノが『カジノ・ロワイヤル』を監督したいと申し出たとか、次のボンド探しが難航しているとか、噂は飛び交いながらも、別に熱心なファンではないので気にしていなかったら、こんなのが出来て来た。
 保守的なシリーズにしては珍しく大胆な再生が図られているが、まあ、それも枠の中での大胆さであることは言うまでもない。それでも、完全にリニューアルに成功しているので、シリーズの延命が見事に図られた。
 ダニエル・クレイグがスペクター顔だとか色々言われていたが、完成した作品で改めてその顔を見ると、スティーブ・マックイーン系統の顔立ちなので、近年のニコラス・ケイジアンソニー・ホプキンスまでが派手なアクションをやるという、おばあちゃんが出てる企画モノAVみたいな見苦しい作品とは違い、古典的なアクション映画をこなせる顔立ちのボンドを得たことで、現在性を持ちながら、007のアナログさにも顔立ちで成立させてしまえるボンドを配したことは、シリーズの継続性を考えても有利だとは思う。
 本作で心配だったのは、マーティン・キャンベルだということで、何も『The Look of Love』を流せとか、開巻の爆破でズラ飛ばせとか、オーソン・ウェルズが…とかオリジナル版へのオマージュを捧げろと無茶を言う気は無く、単純に『ゴールデンアイ』の出来が不満だったからで、果たして期待できる程の演出力があるかどうかと思ったからだが、アヴァンのモノクロでの地味な室内での射殺など、初期作のテイストで良かったし、まだ洗練されていない粗野なボンドというのも目新しくはあった。ただ、その描写が進みすぎると、007を観ているんだか何だかということにはなるのだが。
 良かったのは空港でのテロを阻止するシークエンスで、丁度この前に観た『幽閉者』の開巻のロッド空港襲撃事件を想起させもしたので、『007 レッド・アーミー殲滅作戦』などと言いたくもなったが、車上から振り落とされそうになりながらもしがみ付くボンドの体技は、ダニエル・クレイグならではの若さの発露として瞠目して観ていた。そういう意味では終盤の拷問シーンの良さなども、ブロスナンではできなかったシーンだけに、あの裸といい、ダニエル・クレイグを印象づけるには効果的だった。
 エヴァ・グリーンは『ドリーマーズ』のヒトなので、60年代のニオイとエロさは既に持っているだけに、本作の現在でありながら、初期テイストを彷彿とさせる作りの作品にはよく合っていた。
 脚本にポール・ハギスが参加していることからも、脚本上の作劇の盛り込みは本編を観ただけでも伺えたが、マーティン・キャンベルの演出は、毎回観ていても、あるシークエンスが終わると流れ自体も終息系に持っていってしまうので、次のエピソードの立ち上がりが巧くいってないように思えてしまう。本作では中心に位置するカジノのシークエンスが終わってからのエピソードが長い長い。144分というのが長過ぎるということもあるのだが、観ていて永久に繰り返されるのではないかと不安に思うこともあった。
 エンドロールになってようやくテーマ曲を流す趣向は良かった。
 エピソード間の間の抜けた作品だとは思うが、 楽しめた。