映画 「犬神の悪霊」「奇々怪々 俺は誰だ?」

molmot2006-09-21

妄執、異形の人々  (シネマヴェーラ渋谷
223)「犬神の悪霊」 (シネマヴェーラ渋谷) ☆☆☆★★

1977年 日本 東映東京 カラー スコープ 分
監督/伊藤俊也     脚本/伊藤俊也     出演/大和田伸也 山内恵美子 長谷川真砂美 泉じゅん 室田日出男 岸田今日子 小山明子


 「犬神の悪霊」(たたり)は、もう長年観たかった作品で、確か大井武蔵野館が閉館する時にやっていて観に行こうとしたら丁度引越しでドタバタしていて見逃したような記憶があるが、それだけにようやく観る事ができた喜びは大きい。魅力的な怪奇映画だった。
 この作品は、所謂封印映画的枠組みで語られることが殆どで、作品についてのみ語られたものは少なく、自分が印象に残っている二つの一文がある。
 一つは中学の頃に初めて読んだ小林信彦キネ旬の連載をまとめた「コラムは踊る」の中での本作について書かれたもので、小林信彦は怒っていた。『な、なんだ、これは。犬神がとり憑く、怪奇映画のルールというものが、まるで、ないじゃないか。べつにコワくなくてもいいけれど、失笑させてくれさえしない。』というもので、たぶんこの時に初めて本作の存在を知ったのだと思う。当時既に金田一モノにはドップリ浸かっていたので、横溝ブームの最中に作られた二番煎じ映画にはかなり興味を惹かれた(因みに金田一モノを好む周辺のヒトに本作の存在を話しても興味を持つヒトはこれまで殆ど居なかった)。
 もう一つは黒沢清と篠崎誠の「恐怖の映画史」で、本作についてかなり詳細に語られ、後半の怪奇映画としての魅力が語られていて、これを読んでやはり「犬神の悪霊」はただの珍品でも失敗作でもないんだと。観なければイケナイと思いを新たにした。
 まづは、前述したように金田一モノからどういった要素を持ってきているかを書いておくと、本作の公開は1977年6月18日であり、これは「犬神家の一族」「悪魔の手毬唄」公開後、「八つ墓村」「獄門島」公開直前の時期に当たり、正にブームの渦中に即席で作られた便乗企画なのだが、タイトルに犬神と堂々と持ってくるところが凄いが、悪霊と書いてたたりと読ませるのは、「悪霊島」と「八つ墓村」の崇りじゃ〜からと単純に考えられなくもないが、「悪霊島」はまだこの時期は書かれていない筈なので偶々か。都会の青年が因習に満ちた田舎にやってくるのは「八つ墓村」。村の地下に一攫千金なモノが埋まっているのも同様。ウランは、「悪魔の手毬唄」の仙人峠の元ネタである兵庫県人形峠がウランの生産地であったことと結びつけることができる。その他基本的に暴徒化する村人といった設定を含めて「八つ墓村」がベースだと考えて良いが、唐突に少女が「悪魔の手毬唄」ソックリな童謡を唄ったり(何の意味もないけど)、まあ、表層的な箇所での取り入れに終止している。後はキャスティングに本家からの流入が見られることぐらいで、大和田伸也は弟の大和田獏が「悪魔の手毬唄」に出演していると強引に因縁を吹っかけても良いが、三谷昇は「犬神家の一族」以降市川崑金田一シリーズに出演しているし、岸田今日子も犬神繋がり、小山明子もテレビ版「犬神家の一族」繋がりだ。
 そもそも東映が作ると、翌年公開の「悪魔が来りて笛を吹く」を観てもわかるが、泥臭くなってしまってミステリーなんてスマートなものにはならない。本作も予備知識なく観ていたので、どういう展開に持っていくのかまるでわからないまま観ていたが、前半は流石にこれは観ることに意義がある類の作品かと思いつつ観ていた。
 大和田伸也の現在からすると驚くくらいのフワフワの芝居もさることながら、全裸で泳ぐ姉ちゃん達を見せ(こんな安い脱ぎ方してる姉ちゃん達がヒロインだとは思いもしなかった)、それを盗み見して下着を持ってウロツク完全な変態伸也を見せられつつ、何の映画やねんと。
 又、カットの繋がりも中々早急で、車の走るショットの次は停車して地図を見ているカット、次はまた獣道を走るカットと、メリハリが付きすぎて妙に思えた。で、豪快に祠を車で破壊して、続いて犬を跳ねるという、ストレートなゲンの悪いコトが続く。ここでの跳ね飛ばされる犬を捉えたショットは、犬が実際に跳ね飛ばされる様子を描こうとする生真面目さが滑稽なカットになってしまっており、更に飼い主の少年が犬に駆け寄り泣いてるのに、伸也達は何故か謝りもせずに無言で車で去っていく冷淡さで、ここまでの段階で大丈夫かこの作品、と思えて不安になった。
 更に、披露宴で犬跳ねた奴が発狂し、ビルから飛び降りてしまう。消沈した伸也達が首都高を泥酔状態で無茶な運転をする所が、なかなかにタイムリーで観客のオマエらは子供でも跳ねてエライ目に遭ったらエエねんという思いを新たにさせる。ここまでは、凡作気味な印象だったが、続いて凄いシーンとなる。深夜の都心に何故か大量の野犬が現れて、立ちチョンしてる奴目掛けて犬達が一斉に噛み付くのが、これがもうボロボロになるもで噛み付き倒して、やりすぎ感溢れていて素晴らしい。
 村に展開が移ってからは、ひたすら素晴らしい。現代劇で崇りやらを扱うと野村芳太郎版の「八つ墓村」に顕著なように無理がどうしても出てしまうのだが、伊藤俊也は気にしない。強引に犬神の悪霊だとハナシを持って行き、伸也以外の村人がみんなそうだと言うから、伸也も従う。
 本作で最も魅力的なのは、『暴徒と化す村人』をちゃんとやってくれている所で、「八つ墓村」で不満なのは最も面白くなる暴徒と化す村人の描写が不徹底なせいだ。その点本作では、犬神筋の家への投石から祈祷と、現在では差し障りが出てくる箇所も含めて丹念に描いてくれている。そしてその家族の虐殺にまで至ってくれるのだから、無能な村人が暴徒と化してやりすぎて殺してしまうという、最も好きな展開になったので、ひたすら喜んでいた。何せ、村人が暴徒と化すキッカケを示すショットは大ロングで山の麓に続く長い葬列に、地元の暴走族が山から転がるように駆け込んで来るという素晴らしいショットなのだ。
 生き残った室田日出男が、犬を生き埋めにして日本刀で切り付けて首を飛ばすやりすぎ感溢れる描写に到るまで、ここまでやれば二番煎じではなく横溝とは全く異なるジャンルが発生している。
 (以下ネタバレ含む)
 終盤の、土蔵に気違いの息子を隠していたという唐突な設定は、「獄門島」で本鬼頭の主が気が違って土蔵に入れられている設定あたりから持ってきたのだろうが、小山明子の首に手が周り、体を引き吊り上げるのは恐ろしい。以降、ハッとするような怪奇映画の素晴らしいショットが幾つか見られる。本家の娘に犬神が取り憑き、派手に飛び回る。ただ、天井から伸也に肩車の形で飛び乗って来た際に、何故か足がスネ毛だらけのオッサンの足になっているのは、笑いながらも恐ろしかった。
 最後は娘の首を締め付け、犬神を追い払うが、娘は目を覚まさない。一族の最後の一人を自らの手で殺めてしまったことを悲観した伸也は井戸に身を投げる。その直後、娘は目を覚ます。伸也が自ら命を捨てることで、娘は生命を返された。
 と、ここまでは良いのだが、衝撃的なのは、もう映画が終わるというその瞬間に、村の外れで人目にもかけられず伸也の棺が焼かれている最中、バリバリと死体が半身を起こすのだ。何故起きたんだと思う間もなく映画は終わる。理屈として、こんなことも起きるらしいのでそれで理詰めで理解しても良いが、やはり、ここから村人全員を殺しに行くのだと期待して映画館を後にした。
 
 


224)「奇々怪々 俺は誰だ?」 (シネマヴェーラ渋谷) ☆☆☆★

1969年 日本 東宝 カラー スコープ 分
監督/坪島孝     脚本/田波靖男 長野卓 坪島孝     出演/谷啓 ハナ肇 田崎潤 吉田日出子 吉村実子 横山道代 犬塚弘 なべおさみ

 この作品、ずーっと観たかったのだが、ようやく観ることができた。
 クレージー映画の枠組みからはメンバー全員出演ではないため外されているので(本作には谷啓ハナ肇犬塚弘が出演)、語られることが少ないが、「クレージー黄金作戦」までの大ヒットの実績(「クレージーメキシコ大作戦」から緩やかに興行的には下降線を描き始める)から、ご褒美として好きな作品を作って良いとのことで作ったのが本作で、それだけに、当時の東宝でよく通ったなと思える企画だ。
 所謂ドッペルゲンガー的なものかと思っていたら、次々と相手と入れ替わっていくという奇想天外なもので、東宝でこういった不条理劇をやったらこうなったという作品になっていて、面白い箇所も多いものの、坪島孝の演出というのはクレージー映画でも古澤健に比べればたるみがちで、本作でもモタツク箇所が幾つかあった。
 まあ、この作品ぐらい全篇に渡って“キチガイ”を連呼している作品も空前ではないかというぐらいで、最近そうそう外で聞こえてこないので、ある意味新鮮だった。
 吉田日出子が実に良いし、吉村実子も可愛い。
 クレージー映画ファン的には、バカ息子をなべおさみが演ってるとかハナの気違い演技の凄さとか、諸々あるのだが、何と言っても人見明の、あの“バカッ!”が良い使い方をされている。そろそろ言うなというタイミングで社長になった谷啓が人見に向かってじっくり溜め込んで、“バカッ!”と先に言ってしまう。続いて社長室で、谷に諸々言われた人見は実にアレを言いたそうにするのだが、こんな場では言えない。どうするのかと思いきや後ろを向くとカメラも切り返し、谷に背を向け小声で“バカッ!”と言うのである。このギャグの使用シーンでも上位を争うものだった。
 (以下ネタバレ含む)
 終盤には、谷が牛になりそのまま吉田日出子に引っ張っていかれて終わってしまう馬鹿らしさも含めて楽しめた。