映画 『犬神家の一族』

molmot2006-10-29

第19回東京国際映画祭  クロージング
258)『犬神家の一族』  (TOHOシネマズ 六本木ヒルズ) ☆☆☆☆

2006年 日本 「犬神家の一族」製作委員会 カラー ビスタ 135分
監督/市川崑    脚本/市川崑 日高真也 長田紀生    出演/石坂浩二 松嶋菜々子 尾上菊之助 富司純子 松坂慶子 萬田久子 深田恭子 中村敦夫 仲代達矢
http://www.inugamike.com/movie/inugamike-y01.asx:movie=wmv

 
 ※全シーンを前作と新作で比較したものになる予定なので、書きあがった分から順次アップしていくので未完文


 第19回東京国際映画祭クロージングの『犬神家の一族』は、前売りチケットが取れなかったし、当日券取ろうとも思ったが、忙しくなったので控えることにした。どうせ、公開時かその前にでも巧くすれば試写会で観る機会もあるだろうと。
 昼前に友人が、六本木ヒルズはまだ当日券余ってるみたいだから来いよと電話してくる。どーせヘンな席だろうからいいと断るが、いーやこっちが先に観てアナタが観てないと、話題にし辛くなるから意地でも来いという。というわけで、予定してなかったのに、急遽観ることになった。後で聞くとBunkamuraの方も当日券は余裕だったらしい。
 上映は夕方からだったので、やることも放り出して、昨日から日本映画専門チャンネル金田一シリーズを延々リピートやってるのをBGVにしていたのに、改めてDVDで何十回目かの1976年版『犬神家の一族』を観(フィルムセンターで市川崑特集が組まれた時に一度だけ劇場で観たが、フィルムで観ることができた時は感激した)、脚本を出してきて読み込み、慌てて復習する。
 
 
 本作で『犬神家の一族』は三度目の映画化となる。一度目は1954年に東映渡辺邦男監督、片岡千恵蔵金田一で映画化された『犬神家の謎 悪魔は踊る』で、二度目はそれから22年後の市川崑×石坂浩二による『犬神家の一族』であり、更にそこから30年を経て、同じ監督、主演、脚本もそのままにセルフリメイクされることになった。それ以外に横溝正史生誕100周年の2002年にも再映画化の企画が上がったが潰れたとかいう噂を聞いたことがある。監督は岩井俊二金田一木村拓哉という噂も聞いたが、定かではない。
 昨秋より、市川崑金田一モノの新作をやるらしいという噂は聞こえてきたものの、『本陣殺人事件』だ何だと本当に実現するのか怪しいような噂だったので話半分に聞いていたが、年明けに『犬神家の一族』をリメイクすると発表された時は驚いた。市川崑石坂浩二による金田一モノの新作という、『女王蜂』の年に生まれた物としてはもう観ることは叶わないと当然諦めていたことが実現してしまう驚きは、これまでにも何度も書いたので繰り返さない。
 しかし、その新作が『犬神家の一族』であることには失望した。いくら嘗てリメイク不敗神話を持ち、セルフリメイクも多い市川崑とは言え、必要性のないリメイクに駆り出されるのは気の毒に思った。或いは、この作品こそは新金田一シリーズの再スタートのための祝祭的一本、つまりはシリーズ化の為の興行的安全パイに‥などと強引に納得させて完成を心待ちにした。それに、前作以上の豊潤な予算をかけ、撮影期間も4ヶ月に及び、キャストも現在では上々というべき前シリーズに劣らない顔が揃っている。ミステリーはオールスターで予算をかけて作らないとつまらないので、この姿勢は好感を持てた。
 しかし、気になっていたのは、ロケ地が前作と同じ場所であるばかりか、衣装、セットに到るまで忠実に前作を再現している。更には映像が出てくると、アングルまでが同じだ。これはどういうことだろうか。『ビルマの竪琴』も『黒い十人の女』も、同じ脚本を使用していようが、そこまで同じではない。又は、有名どころのシーンのみ同じ様に再現しているのだろうか、などとも思っていた。

 
 以下、とりあえず1回目の鑑賞のメモである。公開時には2、3回通うつもりなので、とりあえず初見の印象を書いておく。一応公開中には全カット完全解析できるようにしたいなと。壮絶にネタバレ含む。


 開巻は角川映画30周年記念というクレジットが出て、その下には鳳凰のロゴが出る。それが青バックで出るから、角川春樹事務所時代のロゴを思い出してしまう。続いて製作に関連している会社名が出るが、東宝が製作に参加していないことは市川崑フィルモグラフィーを参照する上で重要なので後述する。
 以降、この2006年版『犬神家の一族』が、1976年版『犬神家の一族』と、どう違い、どう同じなのか詳述していく。便宜上1976年版を前作と呼ぶ。


 初めに、全体の8割以上は全く同じカット割り、アングルを緻密に再現していることを書いておく。一応ほぼカット割りは前作に関しては覚えこんでいるので、再現ではない本作独自のカットがあれば数えるようにしていたが、50カットぐらいまででもう止めたが、全体として100カットもないと思う。
 

 以下、恐らく本作撮影にも原型として使用されたであろう1976年版の脚本を参照しながら書いていくと、「S1 犬神家の全景」は、前作では玄関口がファーストカットで次が廊下、大広間という順だったが、本作では犬神の表札がファーストカットで、続いてCGによる豪壮な犬神家の邸宅の全景が映される。ファーストカットから臨終となりF・Oするまではモノクロである。これは市川崑版の『八つ墓村』の開巻と同趣旨のものであり、市川崑好みな粒子の荒いモノクロになっている。犬神家の邸宅の全景が見られることで、前作のような犬神家の規模の大きさが掴みかねるということもなく成功している。


 「S2 同、大広間」での左兵衛翁の臨終を待つ並びは全く同じだが、カメラの動きはクレーンで天井近くの襖模様の隙間から降りてきて広間のロングになるので、前作よりも遥かにスケールがあり、この段階で要所要所をスケールアップさせたリメイクという形になるのかと思った。松子の父へ遺言を促す切り返しは全く同じだが、横に並ぶ一同を入れ込んだショットは前作とは反対側からのアングルで捉えられている。切り返しの半分を前作とは反転するアングルになったりすることが多いのが本作の特徴で以降も頻発するが、かなり微妙な違いなので、注意が必要だ。
 前作ではS2がF・Oすると黒繋ぎでタイトルに入ったが、本作では前作で言うところの金田一初登場シーンである那須市の遠景を金田一が歩いてくるシーンへと繋がる。ここで驚くのが、以前一瀬Pの日記で↓の写真が紹介され、これが前作で金田一初登場シーンに使われた場で今回もここで同じシーンを撮ると書いてあった。
見ればわかる通り、前作の面影はなく、現在ここでロケする必然性も感じない。完成した作品ではどうなっているのかと言うと、建物をCGなのか前作から流用しているのか定かではないが、当時の面影、正に前作と同じようになっていた。しかも、前作の公開時に松田政男が激怒したアンテナ見えまくりといった箇所は消され、〈昭和二十二年秋 那須市〉と出るに相応しい町の遠景となっている。そこに歩いてくる金田一だが、本作の初登場カットを観るまでは、正直不安に思っていた現在の石坂浩二金田一をやって成立するのかという疑念は、この初登場カットで全て吹き飛び、紛れも無い史上最高の金田一役者である石坂浩二金田一耕助が存在していて、その思いは最後まで一度も覆らなかった。
 前作ではこのシーンはロング、望遠の寄りでフルサイズ、何故か古館弁護士のアップのインサートという順だったが、本作では、ロングから家屋を背景にしたフルサイズの歩きと繋がり、金田一の歩き姿の静止画となり、画面がトリミングされて黒味に囲まれてF・Oしてタイトルという順になる。以降のロケ、殊に町を歩くシーンでは圧倒的に前作に比べてアングルが限定されている。当然建物が前作の頃よりも不自由度が増しているからだが、本作における大幅な変更点はロケでの背景に起因する変更が多い。


 タイトルデザインは当然前作を踏襲していて、「愛のバラード」をバックに特太明朝のクレジットが出るわけだが、タイトルロゴは前作と同じデザインで「神」だけ赤に染まっているというようなものだったが、問題があるのは予告、チラシ、ポスターに使用されているタイトルロゴが違うということで、まさか市川崑があんなポスターに使われているような煩雑な特太明朝を使うわけがないと思っていたので、タイトルを観て安心したが、商品を売る側としてはアレで良いのだろうか?イメージの刷り込みとして不味いと思うのだが。
 出演者のクレジットに関しては、前作に引き続き出てる人は殆ど文字のレイアウトは同じような形で使用されている。
 それにしても、劇場で大きく「愛のバラード」を流しながらこのクレジットが流れると、自然と涙腺が緩み、不味い、文字観て泣くなんてどう考えても不味いと辛抱する。
 前作のタイトル明けにあった左兵衛翁の生涯の紹介はカットされている。


 通りでの金田一とはるのやり取りを経て那須ホテルへ。前作ではロケだったが、本作ではセットで、あのホテルを忠実に再現している。偶々手頃な建物があったから使ったであろうものを、態々同じデザインでセットを組むというのが、理解し難い。
 横溝正史が演じた宿の主人を三谷幸喜が演じていて小芝居も入れて客に受けていたので、個人的好みはさておいて、起用は成功とは言えるのだろう。
 金田一が宿帳に名前を書くシーンで、前作では名前を映すだけだったが、今回は同じアングルで映しつつ、はるが態々声を出して名前を読む。そんな必要があるのかと思えた。
 二階の一室も忠実に再現されて科白もそのまま、カット割りも同じだが、この段階で違和感を感じた。何が違うのか。科白のテンポが悪いのだ。
 

 市川崑と言えば、初期の『結婚行進曲』や『愛人』などを観るだけでもわかるが、現在の基準で考えても異様に早口で科白を喋らせている。殆ど早口大会と言ってもよく、現場でもストップウォッチを持って、もっと早くと堰き立てたという逸話を残しているが、70年代、80年代の作品も科白のテンポは随分と早いし、あの目まぐるしい編集だから、ノンリニア時代など影も形もなかった頃に無茶なテンポの編集をやっていたわけだが、『天河伝説殺人事件』を最後ぐらいに、徐々にテンポが落ち始め、時に『どら平太』の浅野ゆう子とのやり取りのシーンのように、ごく一部で往年のテンポを取り戻すこともあるが、『八つ墓村』などでは、特に浅野ゆう子らの演技の不味さも相まって、科白がかなり浮いてしまっていたが、嘗てなら対話では間髪入れずに相手が返していたのを、かなり間を空けてから相手が喋るという形が多くなってきたこともあり、個々の科白をはっきりと聞かせ過ぎる為に、演技者の質や科白自体の問題もあるのだろうが、非常に様式的な浮き立ち方をしてくるし、クドくなりがちで、好みではない。それでも『かあちゃん』のような演技者が巧く嵌れば、演出共々様式化された空間を生み出すことはできていたが。
 

 だから、本作で初めてマトモな対話となった宿の一室での二人の対話のリズムを聞いた途端、これは紛れも無い現在の市川崑のリズムであるとわかる。つまり、脚本、美術、カット割りに到るまで再現に終止している本作で、編集のリズムだけは再現になっていない。
 尚、外食券の代わりに渡す浴衣地の袋に入った米を、はるが袋を開け、米を手にとるという動作が追加されているのは、戦後31年目に公開された前作と戦後61年目に公開される本作の違いだ。このシーンでの御馴染みのフケも快調に落としているが、流石に現在の石坂浩二だと、頭がフケだらけで髪ボサボサの汚いオッちゃんに見えてしまう瞬間があるが、それは一瞬のことで、後は年齢を感じさせつつ成立してしまっていた。
 因みに、はるが呆れて出て行く際の襖に服が挟まり、スッと外から抜くのをアップで捉える市川崑作品では御馴染みの、森遊机命名の“袖挟み”もちゃんとやっていて嬉しくなった。

 
 珠世のボート沈没事件の件では、金田一が飛び出す際に部屋から出た廊下(これまた全く同じに再現してある)を、前作では手前に駆けて来て階段を降りたのを、本作では奥の階段を降りていく。
 続く湖面沿いの走りのシーンでは、前作では横からと縦で走りを捉えていたが、本作では横からのみで引きと寄りで見せている。心配していた疾走感がかなり無くなっているのではないかという思いは杞憂で、うまく編集でリズムを出していた。
 ただ、編集に関しては、猿蔵が飛び込むショットから以降思うことが多かったが、かなり前後に余白のある繋ぎで、猿蔵の飛び込みなら、前作では飛び込む前は3秒ほどのタメだったのに、本作では湖面に駆け寄ってくる所も使っているので、ちょっと間延びした感じになる。
 ボートからの救出シーンで、前作では突如コマ止めを使用していたので、DVDになると不良品じゃないか、といった笑えない抗議があるらしいが、ああいった70年代後半から80年代前半にかけての市川崑の映像遊戯までも再現させるのかと気になっていたが、流石にそこは再現せずに済ませているので、やはり編集は現在の市川崑のリズムということになる。


 
 宿に帰宅後、居る筈の若林が居ない中、悲鳴が聞こえて階下へ金田一が駆けつけるというシーンでは、前作では玄関正面の階段を降りてきて手前を上手に曲がっていたが、本作では奥に洗面所があるという設定に変わっており、金田一の動きが変わってくる。何せ、前作ではかなり狭い建物を使用したであろうことが、洗面所のシーンでの、かなりなワイドレンズでしかも唐突にハンディで金田一をフォローしていたので、狭さが伺えたが、本作ではセットなのでそんなこともなく撮られていた。

 
 次の警察署のシーンでは、前作と同じ建物の外観が使用されたらしいが、初めの正面からのショットは、前作よりも詰めた画になっている。時代の趨勢で余計なものが入り込むのだろう。前作では次に廊下のロング、室内に古舘が入ってくるという順だったが、本作では廊下はカットで、代わりに正面からの外観の赤色灯の寄りが入ってから室内という順になっている。
 ここから古館と署長の加藤武のカラミとなるわけだが、以降、この署長室が主要な箇所となり、前作ではロケで行っていたシークエンスや科白もこの部屋に持ち込まれており、監督、加藤武らの年齢を考慮した措置と考えても良い。
 

 加藤武は、『病院坂の首縊りの家』以来ということはなく、『幸福』『天河伝説殺人事件』『八つ墓村』にも同様の警部役で出演してアレをやってのけているし、市川崑作品以外にも90年代に放送されたフジテレビの片岡鶴太郎金田一シリーズで1作目の『獄門島』から磯川警部を演じているし、確か3作目の『本陣殺人事件』からは、アレを解禁している。このシリーズでは『犬神家の一族』もやっているので、実に加藤武はほぼ同じ役回りを3回に渡って演じているということになる。余談だが、同じくフジのウンナンの『やるならやらねば』に“クイズ・よし、わかった!”というコーナーがありレギュラー出演してアレを毎週やってのけて、遅れてきたファンを喜ばせた。ただ、『天河伝説殺人事件』あたりまでは、まだ往年の警部ぶりを発揮していたが、『八つ墓村』あたりからは年齢を感じさせ、更にそこから10年を経ると、高齢ゆえに演技的にはかなり苦しい。ただ、ここに加藤武が居なくてアレがないというのは考えられないので、もう居てくれるだけで良いという心境なので、前作のギラギラした演技ぶりに比べるのが酷なほど、一本調子でテンポの遅い喋りになっているのが痛々しいほどだが、90歳の監督の前ではそうも言っていられないのだろう。ほぼ前作にあった動きを再現し、後述するが、あろうことか例の屋根の上に雨を浴びながら昇ることまでやってのけている(実際は屋根瓦のみのセットなわけだが、それでも77歳にそこまでさせているのは感動的だ)。


 古舘から若林に引き続き捜査を依頼された金田一の二人が歩くシーンでは、前作では、市川崑のトレードマーク的な屋根瓦を真俯瞰で撮り、二人が歩いている姿を見せるという、『おとうと』『鍵』『ぼんち』『東京オリンピック』等でも印象的に使用されたショットだったが(庵野秀明は『ラブ&ポップ』で少し雑ではあるが、電線ナメで屋根側からの俯瞰で歩く二人を捉えるほぼ再現と言って良いショットを撮っていた。庵野の場合は出典は『犬神家の一族』と考えて間違いないだろうが、歩く方向はオリジナルが下手から上手だったのに対して、庵野はその逆を歩かせている)、本作では予告篇にも挿入されているが、縦構図の俯瞰で二人が歩く姿、次に家屋を背景にした歩きを横移動ショットとなるが、これは前作と全く同じカットとなる。このシーンでは、犬神家の一族を古舘が語って聞かせるのだが、前作では市川崑の編集術が冴えまくる科白の単語合わせで各人物をインサートしていたが、今回はそう複雑な編集を行ってはいない。
 


(まだまだ続くため、とりあえずここまで。しかし、まだ冒頭のシーンなので、このまま行けば膨大な長さになりそうなので、果たして最後までこのペースで行くのかは不明。)


 ラストシーンが凄くて、あのシーンで本作は傑作になり、今年の日本映画ベストワンになった。何故市川崑がこのセルフリメイクを引き受け、コピペみたいなことをしてまで撮ったのか。あのラストシーンに全て結実している。あれこそは、『病院坂の首縊りの家』以来27年ぶりに市川崑石坂浩二による金田一モノの完全新作カットというべきもので、ひたすら涙があふれ、これで完結したんだという最後の別れに思えた。