映画 「小さな冒険旅行」

日本映画史探訪1922〜1960(アテネ・フランセ文化センター)
34)「小さな冒険旅行」(アテネ・フランセ文化センター) ☆☆☆★

1963年 日本 日生劇場映画 カラー シネスコ 60分
監督/大島渚    脚本/石堂淑朗    出演/中川春樹 佐藤慶 木村俊恵 浜村純 加藤嘉 左卜全 小松方正 日下武史 戸浦六宏 小山明子 渡辺文雄

 今年は大島渚の年であると勝手にキメウチしたくなるのは、DVDでようやく松竹時代の作品が来月から順次発売され、これで長編劇映画は「天草四郎時貞」と「マックス・モン・アムール」以外は全てDVD化されたことになり、更にフィルムセンターでは現在「日本の夜と霧」の併映として、大島の「愛と希望の街」以前の実質的デビュー作「明日の太陽」が上映されているし、「小さな冒険旅行」も久々に上映されるとあっては、今年は大島渚の年と言いたくなるのも無理ないではないか。更に付け加えれば、伊藤俊也の新作にして日本映画監督協会創立70周年記念映画「映画監督って何だ!」に出演している。
 「小さな冒険旅行」は、作品的にも興行的にも失敗したと言われる「天草四郎時貞」の翌年に製作された作品で、大島の劇映画のフィルモグラフィーを参照すれば、所謂「悦楽」で復帰するまでの苦渋の三年間に位置する作品となる。最も、この時期大島は、テレビに活動の場を移し、ドキュメンタリーや連続ドラマ等を手掛けているが、この時期のテレビ作品は自分は一部を観た位で、「アジアの曙」も数年前にチャンネルNECOで放送したので観たが、大島のテレビ作品の全貌は掴みかねている。最も、既に作品自体を観ることが適わないものも含まれているわけだが。
 この作品はPR映画に属するもので、同様の形態の作品として翌年には「私はベレット」という作品を撮っているが、こちらは観たいと思い続けているのだが、まだ観ることができていない。いずれも60分の中篇だが、「愛と希望の街」だって62分しかないのだから、決して軽んじてはイケナイ無視しがたい作品である。
 この作品を観るのは二回目で、初見は今回の特集上映のフィルム提供者でもある、プラネット映画資料図書館と言うかPLANET studyo plus oneで観た。それも妙なイベントで、もう8年程前になるが、「鬼畜大宴会」公開イベントとして『Halloween Night』というモノがあり、オールナイトで覆面上映作品も含めた上映を主にしたイベントだったが、そこで上映された1本だった。大島のレア映画が観られるということで、ま、他の作品も良さげだったので行ったのだが、まあ「鬼畜大宴会」がOMSで公開された直後だったし、その関連イベントとなればケッコーな込み具合になると思うではないか。しかもPLANETの狭さを考えれば、エライことになるのではないかと恐々としながら当日行ってみたら、7、8人しか居らず、その内数人は知り合いという惨状で、大阪の非映画文化地域ぶりを改めて感じたが、ドヨーンとした雰囲気の中、熊切和嘉と赤犬のアキラだったと思うが、二人が妙にハイテンションな司会で進行して行った。サントライントロクイズをこの少人数でやると言い出して、しかもまた問題が分かり難い。客席の7人程で考え込むも分からないと。で、正解はと言うと「ザ・フォッグ」とか言われて、そりゃ良い作品だけどさと。イントロで分かるかと。しかも分かりやすい問題として太鼓音が響き、これは分かりやすい「鬼畜大宴会」だと誰もが思った瞬間、手を挙げた奴が「ゆきゆきて、神軍」と言い出し、確かに似たようなモノだがそんな捻りはいらんやろうと。で、何故か赤犬お手製のコロッケが振舞われるという意味不明なイベントだった。上映作品はアタマからいきなり「悪魔のいけにえ」を8mm版で字幕なしで上映するという無茶っぷりで、その他本作を含めて山下敦弘の「腐る女」「断面」、山本浩司の「地球で最初で最後の男」、熊切の大学1回生時の8mm短篇「樹」、何故かマーティン・スコセッシのニューヨーク映画大卒製「What a nice girl like you doing in a place like this?」が上映され、ここまででかなり疲れ切っているのに、ラストに覆面上映として朝の4時から「2001年宇宙の旅」が上映された。流石にその時間に『今から「2001年宇宙の旅」を上映します』と淡々と言われた時は客席がザワツキ、女の子がスタッフに本当にやるんですか?と聞いていたのが印象的だった。自分は汚いプリントなことにも少し惹かれたが、猿が骨投げて宇宙船に変わる所まで見届けて寝た。
 と、いうわけで「小さな冒険旅行」と言うと、このイベントが思い出されてならないのだが、やはり単独でじっくり再見したいと思っていたので、今回の上映は嬉しかった。
 プリントの出所が同じなので退色した状態の良くないモノではあるが、観る事ができるだけで嬉しい。上映が始まると直ぐに、画が縦に詰まっているので、この作品ってトリミングしたプリントだったっけか、と以前の記憶を辿っていたのだが、5分程映写した後場内が明るくなり、毎回ゴダールな風貌と感心するアテネの松本正道氏が、ワイド作品をスタンダード上映していたと詫びられ、スクリーンサイズを正して再び最初から上映された。上映にミスは起こることはあるが、こういった対応の正確さで客席は淡々と上映の再開を待つ雰囲気が生まれる。ま、今回はシネクラブの会員限定上映なので、そう野蛮な奴が居なかったのが幸いした。
 久々に再見した本作は、やはり愛らしい小品の佳作だと思った。この時期の大島は、非常に過激化している時期だが、この作品では大島の描写の確かさ、軽やかさが巧く出ている。石原慎太郎・原案、石堂淑朗・脚本という強面な並びだが、大島の「愛と希望の街」「少年」の間に位置する作品として見逃せない。
 開巻の軽妙なアニメーションで、既にラインが示されているように、この作品は出てはイケナイというラインを踏み越えるところから展開し始める。少年の視線に合わせたローアングルの移動から、父親の佐藤慶の出勤をラインギリギリまでで見送る少年。ここで、佐藤慶が遠方に向かって視線をやると、次のショットでは妻がアパートの窓から手を振っているのだが、佐藤慶と妻が同じ方向を向いて居るので違和感がある。妻を反対側から捉えないと方向がおかしいのだが。それは兎も角、母親も出掛け、少年はラインを越えた先にあるコインを拾うためにラインを越える。
 大島でラインとなると、38度線がとか思いそうになるが、そういう国境が象徴してあるとか考えるのは野暮で、少年が踏み越えてはイケナイ世界に踏み込む魅力溢れる描写と受け止めれば良いのだと思う。都電に乗り込んだ少年の都内の彷徨が始まる。
 後楽園遊園地、神宮外苑、競馬場、浅草、工事中の日生球場、といった舞台となる場所は、幼児の単独移動の問題を考えると妙なのだが、寓話として観ていればそう違和感も感じない。オリンピック前の東京という視点でも興味深いが、この作品で面白いのは、サイレント的な作りになっていて、ガヤは聞かせているものの、科白は一切ない。戦後の映画監督であり、デビューからシネスコだった大島渚が、サイレント要素を用いた作品、それも「日本の夜と霧」や「天草四郎時貞」で大討論会をやった直後に科白の無い作品というのは面白い。それだけに、描写が際立ってしまうだけに大島の職人技術が問われることになるが、そこは撮影所出身監督だけに手堅くまとめている。撮影が舎川芳次なのでそれ程魅力溢れるとまでは言い辛い。もっとも退色しらプリントなので、小林信彦が「コラムは歌う」で本作について『カラーで華麗なまでにとらえられている』と記すものとは、異なる印象になってしまうのは残念だが。
 この作品のもう一つの面白さは、大島一家の面々が意外な役で顔を出すところで、浜村純、加藤嘉左卜全日下武史らも見所だが、バス内で合唱指導する教師に小松方正、競馬場で目立つ女に小山明子、彼女を狙うスリに戸浦六宏、昼火事の現場で疾走する消防士に渡辺文雄と創造社の面々が1シーンずつ軽妙な登場で笑わせる。因みに創造社の面々が脇で軽く登場するというのは「悦楽」でも同様である。
 作品としては宮崎駿の「コロの大さんぽ」に至るまで定石と化したパターンの作品だし、大島の作品中でも突出した傑作だとか言う気は無く、やはり映画では低調期に位置する作品だとは思うが、軽妙な味わいの出た佳作だと思う。